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6年前に辺野古移設反対運動の衰退を予想していた

6年前に辺野古移設反対運動の衰退を予想していた


 6年前の2016年04月06日にブログに掲載した「1967年、暴力で教公二法が阻止されたことを忘れるな」である。
 6年前のキャンプ・シュワブの辺野古移設反対運動は激しかった。反対派は実力で埋め立て工事を阻止するつもりでいた。実力阻止に向けて激しい運動を展開した。しかし、日本は議会制民主主義の国である。非民主的な暴力行為は衰退していく運命にある。だから。、6年後の現在は衰退している。


1967年、暴力で教公二法が阻止されたことを忘れるな



米民政府が統治していた1967年である。教員は10割年休を取り、教育を放り出して立法院に結集した。そして、警官をごぼう抜きにして議会に乗り込んで教公二法の議決を阻止した。教公二法とは教員の政治活動を禁止するものであり、本土ではすでに成立していた。政治活動を抑え込まれることを嫌った教員が立法院の議会になだれ込み、法案議決を阻止したのである。
キャンプ・シュワブに集まって辺野古飛行場建設に反対している人たちは1967年に教公二法を暴力で阻止した教員と同じ思想だ。キャンプ・シュワブに2万5000人の反対者を集めて実力で移設を阻止したいのだ。幹部は「10000人集まれば阻止できる」という話はよく言う。


キャンプ・シュワブで教公二法阻止闘争の時のように工事を阻止できないのは単に人数が少ないだけである。彼らの思想は教公二法を阻止した時と同じである。2万5000人も集まればキャンプ・シュワブになだれ込みキャンプ・シュワブを占拠していただろう。
 なぜ、こんなに教職員は強かったのか。その原因の一つは戦前の教員の地位の高さにある。戦前は中央集権政治であった。中央の政治を地方に広めるのには教育が必要であり、教員がその役目だった。いわゆる国家意思の伝達者である。
「三歩下がって師の影を踏まず」
生徒が教師の影を踏んではいけないくらいに教師の地位は高かったのである。沖縄の優秀な人は軍人か教師か公務員になった。敗戦によって軍人はいなくなった。沖縄では優秀な人は教師と公務員であった。



 教師は優秀であり沖縄の人々の信任が厚かった。しかし、復帰後は日本政府によって教育が発展し、ほとんどの県民が高校に進学し、大学進学者も増加することによって教師の権威は落ちていった。教師は聖者ではなく、普通の人になった。普通の人になることによって次第に左翼政治活動から離れていく教師が増えていった。教師の左翼思想を支持する県民も減っていった。
 教師の左翼活動家はまだまだ多いが、減少傾向に歯止めはかからないだろう。


 目取真俊氏は元教師である。彼の思想には教公二法阻止運動の教師と同じように、実力で法案を阻止する思想がある。それは彼の言動と行動に表れている。
 目取真氏は今度の逮捕を不当逮捕だと主張している。その理由として、一部のメディアでは目取真氏が陸上に上陸したから逮捕されたと報じているが自分は上陸していない、だから逮捕は不当だと主張している。
 そして、「最近の海上行動は、スパッド台船やクレーン付き台船の様子を見、陸上部での作業がないかを確認するのが中心だ。長崎の岩場付近はスパッド台船に向かう通過点に過ぎず、浜に上陸する理由などない」と言い、軍警備員が二人がかりで暴力的に目取真氏を海から岩場に引きずり上げ、力づくで浜に移動させたと言っている。そして、「事実関係をきちんと取材もせず、国家権力側の情報を垂れ流しているメディアには情けなさと怒りを覚える」とメディアを非難している。目取真氏のメディア非難はおかしい。
 逮捕された時、目取真氏は進入禁止フロートをすでに超えていた。超えてなおも進み陸に接近したから軍警備員の手が届いたのである。軍警備員の手が届いたということは違法行為をした証拠である。
目取真氏は「事実関係をきちんと取材もせず」と反発しているが、ほとんどのメディアが進入禁止のフロートを超えたことを書いている。「国家権力側の情報を垂れ流しているメディアには情けなさと怒りを覚える」と言っているが、フロートを超えなかったとは目取真氏は言っていない。陸上に引きずり込まれたと言っているだけである。フロートを超えていたら不当逮捕ではない。正当な逮捕である。目取真氏のほうが嘘をついている。
 目取真氏は自分のブログで、立ち入り禁止のフロートを障害物と呼び、立ち入り禁止のフロートを超えるのが彼の日課になっている。フロートを障害物と考えている目取真氏は今回の逮捕を違法行為と認めていない。その理由は、彼には彼の法律があり、国の法律より自分の法律の方が正しいと思っているからである。
 目取真氏だけでなくキャンプ・シュワブで反対運動をしている人たちはほとんどの人たちが自分たちの法律が国よりも正しいと思っているのである。


三線の日に国道一杯に広がって交通をしゃだんするのは彼らにとって正しい。

三線の日に国道で踊るのは正しい。

道路の真ん中で警官の静止を無視して車を進めるのも正しい。制止する警官の足をひいても正しい。

出入り口にブロックを積むのも正しい。
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 それが彼らの法律である。日本の法律ではない。彼らの法律が屈服させられるのは彼らの法律に欠点があるとは彼らは考えていない。屈服させられるのは法律を駆使できる彼らの権力が弱いからであると彼らは考えている。権力は弱いが思想は正しいというのが彼らである。
彼らは国の権力である警察や機動隊が増加するのに非難を浴びせる。減らせ減らせとシュプレイコールする。それは敵である国の権力が強くなれば自分たちの権力が抑え込まれるからである。敵の権力が弱ければ自分たちの権力を発揮することができる。2004年の辺野古沖移設のように。あの時は国の権力が弱かった。だから、ボーリング調査を阻止できたのである。


 彼らは彼らの暴力を正しいと信じているのである。それは議会制民主主義国家日本の法律を否定することである。彼らの思想が全国に広まれば議会制民主主義国家日本の崩壊である。
 キャンプ・シュワブの反対運動の規模がとても小さいから議会制民主主義の崩壊は大袈裟な話である。大げさではあるが彼らの思想を深く考えれば暴力革命につながる思想であることが分かる。彼らの思想は滅ばなければならない思想である。
           1967年、暴力で教公二法が阻止されたことを忘れるな
 普天間飛行場の横暴な辺野古移設反対運動は6年前に比べると明らかに衰退している。彼らの主張が正しければ反対運動は拡大していた。しかし、県民から身勝手な反対運動は敬遠されるようになったのである。