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自民党が与党であり続けている原因を解いていく2 60年安保からわかる国民の意思

自民党が与党であり続けている原因を解いていく2 60年安保からわかる国民の意思


1950年アメリカ公演に行く前に歓送特別公演が日劇で行われた時、夜の女たちの姐御“ラク町のお米”は仲間たちに大号令をかけ、日劇の1階の半分、約800席を買い占め、「ラクチョウ夜咲く花一同より」と書かれた、ひときわ大きく高価な花束をステージの笠置に贈った。笠置は感激し、彼女たち一人ひとりに「おおきに、おおきに」と応え、握手して回った。



1945年に太平洋戦争は終わった。米軍の爆撃で東京などの都市は焼け野原にされた。広島と長崎には原爆が投下され、日本は破壊しつくされた。





 終戦直後の東京では毎日餓死者が出ていた。1945年末に渋沢敬三大蔵大臣が「来年は1000万人の国民が餓死するかもしれない」と発表した。上野駅地下道には毎日餓死者があふれ、大阪だけでも1カ月に70人の餓死者が出た。敗戦の荒廃の中で人々は日々一刻、すさまじい飢えと格闘していた。だから、国民は絶望していたと予想するだろう。しかし、戦争が終わったということはこれからは原爆が投下されることはないし、B29重爆撃機で爆撃されることもなくなるのだ。戦争で海外に出兵している男たちは銃を捨て日本に帰ってくる。親兄弟が戦死することはない。
 国土は破壊し尽くされ住む家は破壊され食料は少なく飢えの心配はあるが、戦争は終わった。これ以上破壊されることも殺されることもない。国民はそのことを実感したはずである。国民には破壊と貧困への絶望ではなく、平和になったことへの安堵が強かったと思う。
 戦争に負けた日本国民は絶望の淵にいたのではないかと想像するが、笠置シズ子とパンパンたちの笑っている写真をみるとそうではなかったということが分かる。
 軍部が政権を握っていた戦時中は男たちは戦場に駆り出され、女や子供たちは「贅沢しません。勝つまでは」と質素な生活を強制されて生きていた。強制された貧困生活から解放されたのが敗戦である。多くの国民は敗戦という敗北感よりも戦争することを国に強制された生活から解放されて自由になった安堵が強かっただろう。


 日本はアメリカと戦争をして、アメリカは日本に原子爆弾を投下し、B25爆撃機で日本を破壊したのだから米国を嫌うのが当然である。ところがアメリカ流の歌を歌う笠置シズ子を米兵相手のパンシパンたちが熱狂的なファンになった。


奇妙なことである。しかし、現実である。この現実を理解することが大切である。


1946年に戦後初の衆議院選挙が行われた。20歳以上の男女が投票できる日本はじめての普通選挙である。


日本自由党141
日本進歩党94
日本社会党93
日本協同党14
日本共産党5
その他 119
首相 吉田茂


 日本自由党は現在の自由民主党と同じ系統の政党である。日本進歩党も保守政党である。第一回総選挙では保守政党が過半数を獲得した。吉田茂が首相になった。


1947年の選挙では社会党が第一党となった。


日本社会党143
日本自由党131
民主党124
国民協同党31
日本農民党5
その他32
首相 片山哲


社会党が第一党になり、社会党の党首である片山哲氏が首相になった。日本自由党は131で社会党に12議席少なかった。二つの政党は接近している。国民は二つの政党を平等に見ていたということだ。これからは自由党と社会党が交互に与党になって政権を争うことを予想させるのが47年の選挙である。ところが、そうはならなかった。


1949年の選挙である。
民主自由党264
民主党69
日本社会党48
日本共産党35
国民協同党14
その他36
首相 吉田茂


 民主自由党は134議席増えて264になった。一方社会党は105議席も減って48議席になった。国民は社会党の政治にNOの判定をしたのである。
 1949年以降は民主自由党が与党であり続ける。国民が自由党を支持し続けたのは自由党が経済発展の政治を進めたからである。国民は経済発展に力点を置いた政治をする自由党を支持し続けたのである。
1958年の選挙から自由民主党と社会党の二大政党になるが、自由民主党が与党であり続けた。
国民は経済発展を重視し、自民党を支持し続けたことを明らかにしたのが60年安保である。


1959年(昭和34年)から1960年(昭和35年)にかけて日米新安全保障条約(安保改定)締結に反対する国会議員、労働者や学生、市民が参加した反政府、反米運動とそれに伴う大規模デモ運動の安保闘争が起こった。日米安保改正に反対したのが社会党と共産党であった。
反安保闘争は、大規模なデモやストライキに発展していった。最盛期には500万人以上の一般労働者が勤務時間の一部を使って集会や抗議活動を行っていたという記録がある。




安保条約は国会で与党のみ賛成する強行採決で可決された。強行採決は大きな混乱になり、岸内閣は混乱の責任をとって内閣総辞職を余儀なくされた。


 写真で分かるように反安保運動は国会を取り巻くほどに大規模の運動であった。これほどまでに大規模化した反政府運動は戦後初めてであり、その後も反安保運動以上の反政府運動はない。反安保運動はアイゼンハワー米大統領の日本訪問を中止させたほどである。


 1960年6月10日には、アイゼンハワー大統領の来日日程を協議しに羽田に来たジェームズ・ハガチー米報道官が、空港に押し寄せたデモ隊に包囲され、命からがら脱出するという「ハガチー事件」が起きた。
6月15日には、全学連運動家で東大生の樺美智子さんが、国会議事堂前でのデモで衆議院の南通用門から国会内に突入した際、機動隊ともみ合って圧死するという事件が起きた。「警察が一般人女性に暴力を振るい殺した」――この事件はマスコミ各社に大々的に取り上げられた。
樺美智子の死去は、内外に深刻な波紋を呼んだ。政府は、16日の閣議で「アイク訪日、中止」の要請を決めた。マニラまできていたアイゼンハワー大統領は、訪日をあきらめ台湾、韓国に向かったのである。


 反安保運動は米大統領の訪日を阻止し、内閣を総辞職させたのである。それほどまでに反安保運動の規模は大きかった。朝日、毎日、読売など大手新聞7社も「理由のいかんを問わず、暴力を排し、議会主義を守れ」と自民党政府を批判する共同宣言を掲載した。
岸内閣は窮地に立たされた。ここまで事態が悪化したら、誰かが責任を取るしかない。結局岸は、この条約が自然承認された四日後、首相を辞任した。


反安保運動が盛り上がっている最中に国会は解散し、11月20日に衆議院選挙が行われた。自民党が圧倒的に不利であると思われた衆議院選挙である。
選挙では自民党の支持は下がり、安保反対の社会党、共産党の支持が高くなっただろうと予想するのが普通である。衆議院選挙では社会党が圧勝するに違いないと予想する。ところが現実は違った。社会党は圧勝どころか議席を減らしたのだ。当然与党にならなかった。選挙では自民党が勝利 し与党になったのである。


1958年
自由民主党287
日本社会党166


1960年
自由民主党296
日本社会党145
民主社会党17


自民党の議席は287議席から296議席と増えた。社会党は166議席から145議席、新しく設立した民社党が17議席になり、左翼の両党合わせて4議席減の162議席になったのだ。国民の選挙で減るはずの自民党の議席は増え、増えるはずの社会党の議席は減ったのである。それが国民の気持ちである。


内閣を総辞職に追い込み、米大統領の訪日を阻止した反安保運動を国民は支持しなかったということである。それを明らかにしたのが衆議院選挙であった。
自民党287議席 左翼政党165議席であり、比率は1.7対1であった。55年体制と変わらない選挙結果であった。反安保運動は自民党体制をひっくり返すほどの激しく大きい運動に見えたのに、国民の側から見るとなにも変わらないごく一部の反対運動でしかなかったのだ。社会党への国民の支持が増えるはずの60年安保であったか国民の支持は逆に減った。 


500万人以上の一般労働者が参加した反安保運動であった。日米安保を進めた自民党への反発は高く、自民党支持は減るはずなのに逆であったのだ。


 国民は自民党を支持し続け、日米安保は現在も続いている。