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自民党が与党であり続ける根本的な理由は 左翼野党にあり1

自民党が与党であり続ける根本的な理由は 左翼野党にあり1


ずっと自民党が与党であり続けている。自民党が与党でなかったのは1993年と2009年だけである。なぜ、自民党が与党であり続けたのか。自民党が与党であり続けた原因は左翼政党にある。左翼が自民党を与党にし続けたのである。もし、米国のように日本も保守だけの政党であったなら自民党に対抗する政党が存在し、二大政党になっていただろう。しかし、戦後の日本の政治は保守も左翼も混とんとして少数政党が勢力争いをしていた。
保守は保守内で勢力争いをし、左翼は左翼内で勢力争いをしていた。勢力争いが収まって、保守は自由民主党、左翼は社会党を結成したのが1955年である。それを55年体制という。


55年体制


戦後の日本政治は米国系の保守もソ連系の左翼も政党が乱立し、激しい勢力争いが繰り返されていた。ソ連系の左翼は1950年代になると次第にまとまっていき左派と右派が妥協し、左派右派の統一のための折衷的な内容の綱領である「統一社会党綱領」をつくった。左派と右派が統一した社会党になった。一方の保守の方も自由党と日本民主に分かれていたが社会党が右派左派が統一した55年に保守も二派が合同して自由民主党を結成した。55年から自民党と社会党の対立になったのである。それを55年体制という。


55年体制には特徴がある。保守の自民党と左派の社会党の国会の議席の比率は五分五分ではなかった。自民党が3分の2、社会党が3分の1であり、その比率に大きな変化はなかった。一定していたのだ。だから、社会党が政権党になることは一度もなかったのである。ずっと自民党が政権を握っていた。社会党が一番議席が多かったのが1958年の166議席であった。普通は100から140議席が社会党の議席だった。  
自民党対社会党の議席の比率が2対1あたりであったということは国民の社会党を支持する割合は3分の1であり、2分の1にすることは一度もなかったと解釈することができる。国民が左派を指示するのは3分の1であり続けたから社会党が単独で政権党になったことは一度もなかったのだ。ずっと自民党政権のままであり続けたのだ。
日本の選挙は自由である。政府や権力の圧力はないから国民は立候補者の中から自由に選んで投票する。それなのにまるで自民党以外の政党は与党になれないように裏で圧力をかけたように自民党の政権が続いているのである。同じ政党がずっと与党であるのは日本以外の議会制民主主義国家には存在しない。日本だけがまるで独裁政治であるように同じ政党が与党であり続けるのだ。なぜ、自民党だけが与党であり続けるのか。原因は自民党にあるのではない。社会党にある。社会党は左翼政党である。多くの日本国民は社会主義の左翼を支持しないのだ。


戦後は米国とソ連が対立する時代になった。日本はソ連の社会主義より米国の自由主義を選ぶ国民が多かったのだ。だから、社会党が与党になることはなかった。日本国民は左翼が政権を握ることを許さなかったのである。
 1995年に自民党は223議席しか取れず与党から転落した。しかし、社会党が与党になったのではない。その年は社会党も136議席から半分近く減らし70議席になっていた。1991年にソ連は崩壊した。だから、社会党支持者は減ったと考えられる。


 1995年は55年体制の保守と左翼の対立から左翼が保守に逆転したから自民党が下野したのではなかったのである。だから、自民党の下野は55年体制の崩壊とは言えない。自民党が下野した原因は自民党の内部分裂であった。自民党は分裂して、自民党を離党する議員が増えた。自民党を離党した議員が新政党をつくり、多数の政党が誕生した。そして、新党が議席を伸ばした。自民党が過半数に達していないので新生党が社会党・公明党・新政党・民社党・社会民主連合・民主改革に呼びかけて非自民・非共産の8党派による連立政権を設立したのである。日本新党代表の細川護熙が第79代内閣総理大臣になった。
 保守と左翼が連立することによって自民党に代わる政権を樹立することができたのである。左翼が増えたからではなく、むしろ保守が増えたから自民党を倒すことができたのだ。左翼派減少し反自民の保守が増えたのだ。


マスメディアは1995年の細川内閣の誕生を55年体制の崩壊といっているが細川内閣誕生の原因は左派議員が増えたからではなく保守議員が増えたからである。自民党議員は減ったかもしれないが保守議員は55年体制より増えたのだ。本当は55年体制の崩壊ではなかった。保守対左翼の図からみれば55年体制の増長である。


細川内閣は8ヶ月しか続かなかった。
細川内閣の次の内閣は社会党の村山氏が首相の内閣であった。政権の座を追われた自民党であるが8ヶ月後には政権の座に復帰した。自由民主党と日本社会党、新党さきがけの3党の連立が政権を握ったのである。社会党委員長の村山富市氏が首相となった。しかし、村山政権は2年間の短命政権であった。村山氏の次は自民党の橋下氏が首相になった。失った首相の座を自民党はわずか3年で取り戻したのである。
議席が激減した社会党は1996年に社民党に党名を変えた。現在の社民党の衆議員は激減してわずか1人である。旧社会党系の議員は立憲に入っている。立憲は保守系と左派系の混合政党である。


今までに左派の社会党が単独で政権党になったことはない。保守との合同によって政権党になったのは細川政権の時と自民党との連立政権である。民主党は政権党になったが民主党は左派と保守の合同政党であった。保守が参加していたから民主党は政権を握ることができたのである。国民の左翼支持は減り続けている。だから、左派の議員は減っている。国民の保守を支持する傾向は戦後ずっと続いている。そして、保守政治家支持は増え続けている。