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国民の3分の2以上は左翼ではなく保守を支持し続けた それが真実

国民の3分の2以上は左翼ではなく保守を支持し続けた それが真実


戦後は議会制民主主義国家になり、多くの政党が誕生した。小さな政党では与党になれない。与党を目指して政党は合流していった。政党は米国などの民主主義系の保守とソ連などの社会主義系の左派に分かれていた。左派がまとまったのが社会党であった。そして、保守系の自由党と日本民主がまとまったのが自由民主党である。共産党は単独政党を貫いた。保守の自由民主党と左派の社会党の左派との対立構図になったのを55年体制という。
55年体制では自民党が議席のの3分の2を確保し、社会党は3分の1を維持した。55年当時から国民の3分の2が保守を支持していたということである。旧社会党や共産党の左翼系政党を支持する国民は少なかった。この国民による保守支持は戦後ずっと続いている。今も同じである。
55年体制の崩壊が1993年(平成5年)の衆議院議員総選挙で起こった。自民党議員らが分裂して、自民党を離党する議員が増え自民党は過半数割れになったのだ。社会党も惨敗した。1991年にソ連が崩壊した。ソ連崩壊によって社会党を支持していた国民が減ったのだろう。だから、社会党の議員が減ったのである。
自民党を離党した議員が新政党をつくり、多数の政党が誕生した。そして、新党が議席を伸ばした。 この結果、非自民党連立政権となる細川内閣が1993年に誕生した。自民党が政権を握り続けた55年体制が崩壊したのである。ちゅうもくすることがある。55年体制崩壊の原因は左派議員がふえたからではなく保守議員が増えたからである。つまり、左派議員が減ったのが原因であるのだ。自民党議員は減ったかもしれないが保守議員は55年体制より増えたのだ。細川内閣には次の10の政党が参加していた。
日本社会党・公明党・新生党・日本新党・民社党・新党さきがけ・民社党・新党さきがけ・民主改革連合・社会民主連合 
細川内閣は8ヶ月しか続かなかった。
細川内閣の次の内閣が村山内閣である。政権の座を追われた自民党であるが8ヶ月後には政権の座に復帰した。自由民主党と日本社会党、新党さきがけの3党の連立が政権を握ったのである。社会党委員長の村山富市氏が首相となった。しかし、村山政権は2年間の短命政権であった。村山氏の次は自民党の橋下氏が首相になった。失った首相の座を自民党はわずか3年で取り戻したのである。
議席が激減した社会党は1996年に社民党に党名を変えた。現在の社民党の衆議員は激減してわずか1人である。旧社会党系の議員は立憲に入っている。立憲は保守系と左派系の合同政党である。立憲は1992年の衆議院選で左派系議員は減少した。左派系議員は減少し続けている。
今までに左派の社会党が単独で政権党になったことはない。保守との合同によって政権党になったのは細川政権の時と自民党との連立政権である。民主党は政権党になったが民主党は左派と保守の合同政党である。保守が参加していたから民主党は政権を握ることができたのである。国民が保守を支持する傾向は戦後ずっと続いている。そして、保守支持は増え続けている。