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「日本復帰前の沖縄は米統治の圧政」は左翼・マスコミのでっち上げ

「日本復帰前の沖縄は米統治の圧政」は左翼・マスコミのでっち上げ


 琉球新報に掲載している「『不屈』の精神、全国から支援 コロナ禍、瀬長亀次郎さん資料館存続へ総額1000万円の寄付 不屈館開館10年」の書き出しは「日本復帰前の沖縄で、米統治の圧政に対する抵抗運動の先頭に立った政治家・瀬長亀次郎」となっている。問題は復帰前は「米統治の圧政」と書いてあることである。圧政は間違っている。沖縄二派多くの米軍基地がそんざいしているから米軍が支配していると思うだろうが、そうではなかった。
 嘉手納基地の近くに住み、通っていた古堅小中学校の西と南側はは通信基地トリイステーションの金網に囲まれていた。しかし、教科書はすべて日本の教科書であった。学校制度も日本と同じであった。行動は自由であった。米国は米国流の民主主義を沖縄で実施していた。
 琉球立法院、裁判所、主席の三権分立を施行したのは米国である。ただ、沖縄は共産党が強い島であることに気づいた米国は主席選挙を止めて、米民政府が決めた。沖縄人が首席になり、議員が選挙選ばれるようになったのは沖縄の歴史で初めてである。
 教科書で学んだことを参考にして沖縄について考えて、沖縄が米国の圧政下にあるとは思えなかった。むしろ、米国によって民主化されていると思った。
 圧政されていたら沖縄の人口は減るはずである。しかし、沖縄の人口は増え続けた。戦前は貧しさが原因で60万人から増えななかった。ところが戦後は60万人から90万人以上になったのである。原因は経済が向上し、民主的な生活ができたからである。
 米国が沖縄を変革したのは政治だけと思っていた。そうではなかった。経済発展に大きく貢献したのも米国だった。それはサムエル・C・オグレスビーの存在で分かる。彼は沖縄の産業を開発した第一人者であるのだ。彼のことを「内なる民主主義」の一号となる「かみつく」に掲載した。


沖縄産業の恩人 
故サムエル・C・オグレスビーを讃えて
 故サムエル・C・オグレスビーは、1911年10月アメリカ合衆国バージニア州で生まれ、メリーランド大学で学士号及び修司号を修得、さらにエール大学で極東問題と日本語の研さんを積み卒業された。
 1966年12月20日逝去され、個人の遺言よって、個人の愛された沖縄、泊の国際墓地に永眠される。
 同氏は、1950年3月第二次大戦終焉の激戦地として廃墟化した沖縄に米国民政府職員として赴任され、沖縄の経済、特に諸工業復興の種子を撒き芽を育てた。戦前の沖縄では夢想だにできなかった各種の近代的工業の隆昌を見るにいたったことは、真に沖縄人を愛し、沖縄の繁栄を願う同氏の16余年にわたる献身的努力の賜物である。
 
顕彰墓碑式での具志堅理事長あいさつ
 私ども、沖縄の産業人は、故オクレスビー氏を「沖縄産業の恩人」と呼び慕い、かぎりない感謝と尊敬の念をささげております。
 1950年頃、戦後の荒廃から沖縄産業復興の策定が始まったとき、当時の合衆国琉球軍政府の方針は、食糧増産、黒糖工場で進むことであったようですが、これを沖縄側の要望である農業は甘藷作、そして大型分蜜工場の実現を主張して実現させました。また、石垣島に於ける収穫の6ケ月後に迫ったパイン工場新設を、当時の民政府に直接談判して、特別の民政府直接融資を成功させました。このように故オグレスビー氏、沖縄の二大機関産業である分蜜糖、パイン缶詰の基礎を築かれました。
 私事にわたって失礼ですが、私の企業である味噌醤油、職油、ビールは、オ氏の大きな後援によって今日の発展をみるに至りました。いつもいつもその愛情と功績を感謝している次第です。このようにしてお菓子、鉄筋、合板など沖縄の製造加工業の90%は、オ氏の直接間接の指導後援に負うところが大きいのではないでしょうか。故オグレスビー氏の米国民政府経済局に於ける16年間のお仕事は、そのまま沖縄産業発展の歴史と云っても過言ではないと思います。これもオ氏が日本語をよく話し、沖縄人よりも沖縄人の心になり切って民政府要路の方々を説得することができ、沖縄に適した産業政策を実現された功績によるものであります。
 去る、1964年、琉球連合会創立10周年事業として、胸像を制作、東急ホテルで盛大な贈呈式を行いました。
 1966年12月には、オ氏の名を永久に記念すべく沖縄財界有志の方々から浄財をいただき「オグレスビー記念産業開発基金」を設立(基金5、333ドル)し、第一回の奨学資金授与並び第一回工業功労者表彰を行い、活動を開始しております。そして今回は、沖縄財界人の浄財による「顕彰墓碑」の建立となった次第です。
 以上をもちまして、故オグレスビー氏のご功績を偲び、除幕式のご挨拶とします。
  1968年11月26日
       オグレスビー氏産業開発基金
         理事長 具志堅 宗精


赤マルソウの醤油が出た頃、タイス・オグレスビー夫人は毎日のように平和通りの店を巡り、「キッコウマンより赤マルソウの醤油がいい」と買っては宣伝して回られた。


 沖縄を愛し、沖縄の経済発展に全身全霊をかけたアメリカ人がいたことを君は知っているか。サムエル・C・オグレスビー。彼はウチナーンチュの私や君よりも何倍も何倍も沖縄を愛していた。
 彼は夫人とともに泊の国際墓地で眠っている。


米民政府は軍事基地の強制、米軍兵士の事件・事故の隠ぺいだけをやってきたのではない。
行政・立法・裁判の三権分立を確立し、沖縄社会の法治主義・民主主義を推し進めてきたのは紛れもなく米民政府である。
そして、琉球大学、琉球銀行等を創立して沖縄の政治・経済発展を推進してきた。


その中でもサムエル・C・オグレスビー氏は沖縄側の立場に立ち、米民政府と熾烈な交渉をして、沖縄経済発展に貢献した。


「オグレスビーさんは『琉球製糖建設で私も10年歳をとったが宮城も10年ふけた』と云って笑われたのを思い出します」(宮城仁四郎弔辞より)
資金も知識も経験もない沖縄での製糖業の近代化は想像を絶する困難なものであった。
それを実現したのがオグレスビー氏だったのである。


沖縄の経済発展に自分の人生のすべてを打ち込んだアメリカ人がいたことを沖縄の学者、知識人、マスコミは封殺している。
         「かみつく」
 オグレスビー氏についての本は産業界が出版した「沖縄産業の恩人」だけである。沖縄の学者や知識人が出版した本は一冊もない。
沖縄の経済発展に大きく貢献した人物であり、産業界では有名であるのに彼に関する本が一冊もないのである。ほとんどの県民は彼のことを知らない。私も知らなかった。私が知ったきっかけは琉球新報に彼のことが載ったからだった。全然知らない人物だったのでネットで調べた。調べて驚いた。オグレスビー氏が居なければ製糖とパインの沖縄の二大産業ができなかったである。こんな重要なことを沖縄の人たちは知らないのである。


 共産党設立に参加し、最初の書記局長となったのが沖縄出身の徳田球一であった。沖縄は戦前から共産党勢力が強かった。琉球大学の男子寮長、女子寮長、自治会長は共産党の青年部である民青であった。だから、教員や公務員は共産党員が多い。マスコミ、学者もそうである。共産党を中心とした左翼系が強い沖縄だから米国の民主主義を打ち消して米国は沖縄を支配し圧政であったというイメージを広げている。共産党の反米主義は今も続いている。
 辺野古移設反対の根元は反米主義である。沖縄の米軍基地は全て撤去させるのが共産党の目的である。だから、普天間飛行場の移設であるのに辺野古新基地と言って「新基地建設反対」という。志位委員長は辺野古に新基地ができると有事の時にミサイル攻撃されるという理屈で辺野古移設に反対している。
米国統治時代を「米国の圧政」といい、辺野古移設を「有事に辺野古新基地はミサイル攻撃される」は共産党の反米主義によるでっち上げである。