hijaiのブログ

沖縄、日本、世界の情勢や芸術について自由に意見するぞー

議会制民主主義をプーチンは独裁国家につくり変えた

沖縄に内なる民主主義はあるか・捻じ曲げられた辺野古の真実

電子書籍 価格350円
画像をクリックすると発売場面に移動


出版本も発売中
(株)地方小出版流通センター
TEL 03‐3260‐0355
FAX 03‐3235‐6182
沖縄教販
TEL 098-868-4170
FAX 098-861∸5499

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
議会制民主主義をプーチンは独裁国家につくり変えた


 ソ連が崩壊して議会制民主主義になった。そうだったはずのロシアがいつの間にかプーチイ独裁の国家になっていた。その原因を追究する。


1991年にソ連は崩壊した。崩壊は米国などの軍事攻撃でソ連軍が敗北したことが原因ではなかった。ソ連経済の破綻が原因だった。末期のソ連は経済が破綻し、商店には商品が枯渇し国民は生活が困窮していた。ソ連は経済に行き詰まり崩壊したのだ。経済が破綻したソ連は国家予算が枯渇し、共産党一党独裁を維持することができなくなった。だから、独裁を放棄し、大統領、議員を選挙で選出する議会制民主義になった。ソ連が支配していた東欧の国々はソ連から解放され、多くの国々が議会制民主主義国家になった。
 ロシアがウクライナに侵攻するまではソ連は議会制民主主義国家であり、議会制民主主義が世界に拡大していっていると思っていた。ところが違っていた。ロシアは民主主義国家になっていなかった。独裁国家になっていた。議会制でありながら民主主義ではなく独裁国家であるのがロシアだ。
 議会制=民主主義をロシアがウクライナ侵攻するまでは信じていた。
 2015年に出版した「捻じ曲げられた辺野古の真実」で民主主義革命=議会制を信じていたことを書いている。

東欧の民主主義革命=社会主義国家の崩壊

拡大を続けていた社会主義国圏であったが、1960年代からヨーロッパでは民主化運動が始まった。民主化運動は次第に広がり社会主義国家を崩壊させる。


ベラとはチェコスロバアの体操選手ベラ・チャスラフスカのことである。1968年のメキシコ五輪で、私はベラに非常に感動した。琉球大学の男子寮の食堂の映りの悪い白黒テレビであったが、ベラの体操に私の目は釘付けになった。スポーツを見てあれほど感動したことはなかった。19歳の私は感動を詩に書いた。

ベラ


われる拍手と歓声の中で
乱れた金髪を後光にほほえむベラ
踊り終えた肉体は安らぎ
安らいだ心が
生を終えた心が
よろこびをかみしめる


沈黙の世界がいつしかおとずれる
棘をもたない花
金貨で買えない真珠
目が遠い宇宙をみつめる
そこにはなにもない


血のにじむ練習
自信 転落 絶望 回転
喜び 躍動 希望 自信
過去の世界
宇宙塵と散った過ぎし日
過去も見えない未来も見えない 現実も


真空の無時間の世界であなたは生きていた


平均台
マット
跳馬


生きていた場所から去ったあなたはよろこびを噛みしめる
ああ すばらしいあなたの姿
女神よりも尊いあなたの姿
涙を一粒
喜びのあなたの涙が私の胸に落ち
わたしはうちふるえ 高鳴り 熱くなり
よろこびとも悲しみとも言えない
いわれのない
涙があふれでる


チャスラフスカはメキシコオリンピックで、跳馬 、段違い平行棒、床そして個人総合で金をとり、平均台と団体種目では銀メダルをとって女子体操の6種目すべてでメダルを獲得した。しかし、彼女の演技する姿にはメダルを越えたなにかがあり、彼女の魅力に私は惹かれた。
なぜ、私はあれほどに感動したのか。その理由はかなり後になって分かった。


チャスラフスカは1968年のチェコスロバキアの民主化運動(「プラハの春」)の支持を表明して「二千語宣言」に署名した。同年8月のワルシャワ条約機構によるロシアが軍事介入をして、プラハに侵攻してきた。弾圧から逃れるために彼女は身を隠さざるを得なかった。彼女のメキシコオリンピック参加は非常に危ぶまれていたが、オリンピック直前にようやく出国を許可された。彼女はこのとき、祖国の屈辱をはね返すために、最高の演技を誓い競技に臨んだ。そして、圧倒的な強さを見せたのである。弾圧に屈しない彼女の内に秘めた闘いの魂は体操の演技に昇華して私を感動させたのだ。

二千語宣言

1968年のチェコスロバキア改革運動、いわゆる「プラハの春」を象徴する文書のひとつ。4月の『行動綱領』が党による改革の指針であるのに対して、『二千語宣言』は市民社会側からの改革への支持・期待の表明であった。起草者は、作家のルドヴィーク・ヴァツリーク。
エミール・ザトペックやベラ・チャスラフスカをはじめとする著名人が名を連ね、1週間たらずで3万人以上の市民が署名した。
『二千語宣言』に署名したチャスラフスカは金メダリストとしての栄誉をはく奪され、職を失い、苦しい生活を強いられる。うつ病にもなったという。しかしそれでも彼女の不屈の精神は弾圧に負けず転向することはなかった。1989年にチェコスロバキアが民主化されるまでの21年間、彼女は耐えに耐えて生き抜いたのである。
1989年11月、ビロード革命によって共産党体制が崩壊すると、彼女はハベル大統領のアドバイザー及びチェコ・日本協会の名誉総裁に就任した。大統領府を辞した後には、チェコオリンピック委員会の総裁も務めている。


チェコスロバキアの民主化革命をビロード革命と呼んでいる。
 1989年11月17日に共産党支配を倒したがこの革命は、1か月後のルーマニア革命のように大きな流血に至る事態は起こらなかったことから、軽く柔らかなビロード(ベルベット)の生地にたとえて名付けられた。


民主化革命は労働者や文化人が中心となって起こした。これこそが真のプロレタリア革命であると私は思う。プロレタリアとは労働者階級のことである。労働者には家族がいる。家族も労働者階級に属する。労働者というのは自分の労働を売る人間のことをいう。労働を売ってお金=給料をもらう人間だ。働いて給料をもらう人はすべて労働者である。学生の頃、私はそのように考えていた。
民主化革命はいろんな労働者が力をあわせて自分たちの権利を勝ち取った闘いであった。ロシア革命などの社会主義革命は労働者ではなく政治家が中心になって起こした革命だ。だから本当のプロレタリア革命ではなかった。共産党一党独裁の社会主義国家を倒した民主化革命こそが本当のプロレタリア革命だったのだ。

フランスの五月革命

事件の発端は1966年に起こったストラスブール大学の学生運動で、教授独占の位階体制に対する民主化要求からはじまった。短編小説「一九七一Mの死」で書いてあるように私が琉球大学の学生運動に参加していた時、琉大の自治会を握っていた革マルが家族闘争の模範としたのがストラスブール大学の学生運動から始まった「フランスの五月革命」であった。「フランスの五月革命」は民主化運動であったが、革マルは革命を目指した運動である。学生の頃は民主化運動と革命運動の狭間で私は悩んだ。


ストラスブール大学の民主化運動はナンテールに波及し、1968年3月22日にはベトナム戦争反対を唱える国民委員会5人の検挙に反対する学生運動に発展、ソルボンヌ(パリ大学)の学生の自治と民主化の運動に継承された。アナーキストのダニエル・コーン=ベンディットと統一社会党のジャック・ソヴァジョ、毛沢東主義者のアラン・ジェスマル、トロッキストのアラン・クリヴィンネが指導し、フランス全体の労働者も同趣旨から民主化に賛同し、運動は拡大した。その頃から民主化運動の枠を超えて政治運動に転換していった。
ベトナム戦争反対は民主化運動ではない。しかし、国民委員会5人の検挙は表現の自由への弾圧であり、彼らの逮捕に反対する運動は民主化運動である。
5月2日から3日にかけて、カルチエ・ラタンを含むパリ中心部で大規模な学生デモがおこなわれた。5月21日にはベトナム戦争、プラハの春事件等の国境を越えた国家権力の抑圧に反対し、自由と平等と自治を掲げた約1千万人の労働者・学生がパリでゼネストを行った。これに対して、機動隊がこの参加者を殴打したため、抗議した民衆によって工場はストライキに突入し、フランスの交通システムはすべて麻痺状態に陥った。「中央委員会」は間接的に援助、各大学もストライキに突入し、このゼネストは第二次世界大戦以来のフランス政府の危機をもたらした。
運動は民主化を越えた反政府運動へと発展していった。


シャルル・ド・ゴール大統領は、軍隊を出動させて鎮圧に動くと共に、国民議会を解散し、総選挙を行って圧勝した。ド・ゴール大統領が選挙に圧勝したことは注目すべきである。つまりフランス国民は民主化運動には賛成したが、民主化運動に乗じたアナーキーやトロッキストたちの反政府運動=革命運動には反対したのである。
五月革命によって、労働者の団結権、特に高等教育機関の位階制度の見直しと民主化、大学の学生による自治権の承認、大学の主体は学生にあることを法的に確定し、教育制度の民主化が大幅に拡大された。民主化運動の勝利である。五月革命は20年後の東欧の民主化革命に大きな影響を与えただろう。


東欧革命または東欧民主化革命または共産主義の崩壊は、1989年にソビエト連邦(ソ連)の衛星国であった東ヨーロッパ諸国で共産主義国が連続的に倒された革命である。1989年革命と呼ばれる事もある。

ポーランド民主化運動

ハンガリー人民共和国は1980年代初頭には既に経済の自由化や議会の複数候補制などの改革を進めていたが、1988年5月に社会主義労働者党(共産党)のカーダール・ヤーノシュ書記長が引退すると、社会主義労働者党内ではより急進的な改革を主張する勢力が実権を掌握するようになった。1989年2月に急進改革派は事実上の複数政党制を導入し、5月にはネーメト内閣がハンガリーとオーストリア間の国境を開放し、鉄のカーテンに穴を開けた。
1989年10月には、社会主義労働者党は社会民主主義政党のハンガリー社会党へと改組、さらに10月23日には新憲法「ハンガリー共和国憲法」が施行され、ハンガリー人民共和国は終焉した。

ベルリンの壁崩壊

クレンツ政権のスポークスマン役を担っていたシャボウスキーは、規制緩和策の内容をよく把握しないまま定例記者会見で「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表し、いつから発効するのかという記者の質問に「私の認識では『ただちに、遅滞なく』です」と答えてしまった。この発表は、東ドイツ政権内部での事務的な手違いによるものだとされる。この記者会見を観た東ベルリン市民がベルリンの壁の検問所に殺到し、殺到した市民への対応に困った国境警備隊の現場指揮官は11月9日の深夜に独断で検問所を開放した。11月10日に日付が変わると、どこからともなく持ち出された重機などでベルリンの壁は破壊され、その影響は世界的に広まった。

ブルガリアの民主化

ジフコフ長期政権が崩壊し、後任となったムラデノフらはあくまでも一党独裁制の枠内での自由化を進めようとしたがこれをきっかけに市民側のデモが活発化し、12月には党の指導性を放棄することや自由選挙の実施などを決定せざるを得なくなった。1990年の自由選挙ではブルガリア社会党(共産党が改名)が過半数を制して政権を維持し、ムラデノフが大統領となった。しかし、1990年6月になると前年にデモの武力鎮圧を示唆したとされるムラデノフの発言が問題視され、ムラデノフは大統領を辞任し、翌1991年に行われた2回目の自由選挙で社会党は下野した。

ビロード民主化革命

ベルリンの壁崩壊を受けて、東欧の共産党国家の連鎖的な崩壊が始まった。チェコスロバキア社会主義共和国では、ポーランドやハンガリーのような予告された民主化の約束はなかった。しかし、ベルリンの壁崩壊に勇気付けられたチェコスロバキアでは、1989年11月17日に至り、民主化勢力を中心にデモやストライキ・ゼネストを度重なって行った。それらの事態を収拾できなくなった共産党政府はなし崩し的に民主化勢力との話し合いによる解決を模索することとなり、結果、両者は共産党による一党独裁体制の放棄と複数政党制の導入を妥結した。この「革命」では後のルーマニアのような流血の事態には陥らなかった。これを指してビロード革命と言う

ルーマニア民主化革命

ポーランド、ハンガリー、ブルガリア、チェコスロバキアでは国内の政権移譲が穏健に済んだのに対して、当初から国内の改革に全く否定的で共産党が政権の座に固執し続けたルーマニア社会主義共和国では、1989年12月16日に民主化革命が勃発し、治安維持部隊と市民の間で、衝突が起こり多数が犠牲となった上、12月25日にはルーマニア共産党の最高指導者であったニコラエ・チャウシェスクが処刑されて終結した。チャウシェスクの死体はテレビを通じて世界中に晒され、チャウシェスクの死によってルーマニア社会主義共和国は崩壊し、民主政体を敷くルーマニア共和国が成立した。
 
コマネチの亡命

チャウセスク独裁政権下のルーマニアでは個人の自由は認められず、警察も含め、誰もチャウセスク一家に逆らう事は出来なかった。
ナディア・エレーナ・コマネチは1976年に行われたモントリオールオリンピックで3個の金メダルを獲得し、オリンピックの舞台で初めて10点満点を獲得した選手であった。1984年から1989年まで彼女はルーマニア体操協会のコーチとしてジュニア選手の育成にあたったが、ニコラエ・チャウシェスク大統領の次男ニクが毎晩のように夜の街へ付き合うように求められ、愛人関係となることを強いられた。身も心もボロボロになったコマネチは、1989年11月28日、命がけでルーマニア脱出を敢行、6時間歩いて地雷が埋められた国境を越えハンガリーに逃れた。しかし、ハンガリー国境警察に逮捕されてしまう。ここでも彼女は決死の脱走を計り、オーストリアに脱出しアメリカ大使館に駆け込む。12月1日彼女はアメリカに渡り、自由を得た。
コマネチの亡命はルーマニア国民を奮い立たせた。12月22日、チャウシェスクの演説中群集はチャウシャスク打倒デモ隊と化した。大統領夫妻はブカレストを脱出したものの近郊のトゥルゴビシュティで逮捕、25日に特別軍事法廷で死刑判決を受け即刻処刑された。
        「捻じ曲げられた辺野古の真実」


ロシアは議会制民主主義国家になって、公正な選挙で大統領と国会議員は選出された。プーチンは2000年のロシア大統領選挙を制して大統領に初当選した。プーチン大統領は経済改革をやってロシア経済を復興させた。
プーチン氏の大統領在任中に、ロシア経済は8年連続で成長し、購買力平価で測定したGDPは72%増加、実質所得は2.5倍、実質賃金は3倍以上、失業と貧困は半分以下に減った。ロシア人が自己評価する生活満足度は大幅に上昇したのである。 ロシアの輸出の大部分を占める原油価格・ガス価格が5倍になった。ソ連時代義後の恐慌や金融危機から回復し、海外投資は増加した。プーチン大統領の経済・財政政策の結果である。


ロシアがウクライナ侵攻をするまではロシアは議会制民主主義が定着し、プーチン大統領は民主主義のルールを守っていると思っていた。国民の選挙による議会制民主主義が独裁国家になるとは信じられなかった。しかし、プーチンは選挙による議会制を独裁システムにしたのである。
政敵を犯罪者に仕立てて刑務所送りにすたり、また、暗殺をしてこの世から抹殺して政的を排除したのである。大統領選挙はプーチン氏が当選する仕組みをつくり上げたのである。議会も同じ方法で政敵を抹殺し、プーチンに従う者だけが当選したのである。国民の選挙で選ぶ議会制で独裁政治ができるのは予想できなかった。しかし、プーチンは独裁国家をつくり上げたのである。