hijaiのブログ

沖縄、日本、世界の情勢や芸術について自由に意見するぞー

米民政府統治時代の沖縄 平和 自由 発展の島だった

米民政府統治時代の沖縄 平和 自由 発展の島だった


私は戦争が終わって3年後に生まれた。米民政府統治時代に育ち青年になった。私の思想は米民政府統治時代の沖縄で培われた思想である。沖縄は自由であったという感触が私には強い。米軍に弾圧されたという実感はない。米国が議会制民主主義国家であることを米民政府統治の沖縄で私は実感した。沖縄の歴史で沖縄の庶民が初めて自由になったのが戦後の米民政府統治時代である。
米民政府統治時代に日本の小説や評論は勿論のこと西欧や米国の評論や文学を読み、音楽を聴き、映画を見て育った私である。日本、世界を自分なりに見ていたつもりである。


アメリカの民主主義を象徴しているのが「人民の、人民による、人民のための政治」というリンカーン大統領の有名な演説である。米国は大統領、議員を選挙で選出する議会制民主主義国家である。このことは学校の社会科で学習する。民主主義国家の米国が沖縄を統治したのだ。どのように統治していたのか。それは戦後の沖縄の文化、経済の発展と密接な関係がある。
戦後の沖縄はバス交通が発達した。琉球民謡「時代の流れ」の三番の歌詞である。
三、昔の那覇の行ち戻いん 歩つちる我たや行ちゃびたしが 今や居ちょて行ち戻い 昔の面影むるねらん
○昔の那覇は行き来(交通)も歩いて我々は行きましたが 今は居たまま(乗り物)で行き来して昔の面影はまったく無い。
戦前はバスはなく人々は歩いて移動していた。しかし、戦後の沖縄ではバス交通が発達した。3歳の私が三輪車を欲しがったらしい。母は那覇に行き買ってきたと言っていた。子供の三輪車も読谷、嘉手納などでは売ってなかったのだ。多くの人がバスで那覇に買い物に行った。那覇はバス交通の発展で栄えた。那覇以外にもコザ、浦添などの街が栄えていった。嘉手納もバス交通のお陰で発展した。
読谷村から出る嘉手納経由コザ行きのパスがあった。読谷、恩納、名護からコザに行く人は嘉手納で乗り換えをしなければならなかった。多くの人が嘉手納にやって来た。嘉手納はバス交通のお陰で栄えた。嘉手納には4つの映画館があり、三つのパチンコ店、二つの市場あって栄えていた。二階建ての沖縄芝居専門の劇場もあったし、ビリヤード場もあった。マイカー族が増え、バスに乗る人が少なくなるにつれて嘉手納はさびれていった。
戦後の沖縄は女性が自由になった。「時代の流れ」五番である。


五、昔女のたしなみや、髪の長さしでえびたる 今や昔とうち変て 生いとる髪んうしちみやい パーマネントしけえちじゅらち まーん変わらん鳩の巣
○昔の女のたしなみは髪の長さでしたが今は昔とすっかり変わって生えている髪をばっさり切ってパーマネントで縮らせている なんの変わらもない鳩の巣だ。


子供の頃、パーマ屋がどんどん増えていった。鳩の巣と皮肉っているが、女性にとっては髪を短くしてパーマにすることで映画で見るアメリカ女性のように解放感を味わったと思う。それにパーマ屋は男性禁止の女性だけの世界であり、女性が自由に話せる場所でもあっただろう。


六、踵高靴小や けえ履まい
ウンブイコーブイ 歩っちゅしや
すっとん変わらん 風吹き鳥
○かかとの高い靴(ハイヒール)を履いてこっくりこっくりしながら歩いているのはすこしも変わらない 風の中を飛んでいる鳥と


ハイヒールはアスファルトやコンクリートなど地面が固い場所で履くものである。地面がデコボコしていたり穴があるような道路ではよろよろ歩いてしまう。私は子供の頃、この歌のようによろよろ歩く女性を何度もみた。舗装された道路は一号線などバスなどが通る道路だけで、住宅の道路は砕石された石灰岩の道路だった。あちこち穴が開いていた。だから、ハイヒールで歩くと躓いて転びそうになった。それでもハイヒールを履いている女性は多かった。


七、タイトスカートけえ着やい ちんしやとがらち尻まぐらち まーん変わらん七面鳥


タイトスカート 腰の部分から裾まで、からだに密着した形のスカート。
○タイトスカートを着こんで、膝を尖らせてお尻を揺らしている どこも変わらない七面鳥と


パーマ、ハイヒール、タイトスカートをつけている女性を皮肉っているが、それが自由な新しい時代を暗示している歌である。
沖縄の民謡は流行歌であり、時代を反映した歌が生まれる。また、新しいタイプの歌手も生まれる。
照屋林助は民謡歌手てあるがエンターティメントが高く、漫談に近かった。三線でギターのように三本同時に鳴らしたり、逆に一本だけにして三本あるような演奏をした。別の民謡歌手には竿だけでなく.胴(どう)[チーガー]の部分まで押さえて超高音を出して唄う歌手もいた。三線を後ろに回したりして自由に弾く歌手が居た。太鼓をまるでジャズドラムのように自由に叩く少年も居た。
民謡の伝統を破って自由に歌っていたのが米民政府時代の沖縄である。民謡は盛んになり、沖縄芝居も盛んになっていった。


新しい民謡グループも生まれた。四人姉妹の少女の民謡グループが石川で誕生した。フォーシスターズである。フォーシスターズは次々とヒット曲を生み出して至った。
私は琉球民謡には興味はなかったがフォーシスターズのちんぬくじゅうしいは好きであった。



60年以上前の写真である。写真では琉球民謡を歌っているとは思わないだろう。でも、彼女たちはウチナーグチの民謡だけを歌っていた。
ちんぬくじゅうしいのバックは三線や太鼓ではなくベース、ドラム、キーボード、フルートなどの楽器であった。沖縄の楽器だけでなく、外国の楽器も使ったのが戦後の民謡の特徴である。
ユーチューブよりちんぬくじゅうしい
<ちんぬくじゅうしい>


 ちんぬくじゅうしいは10万枚の売り上げを記録したという。沖縄の10万枚は本土の100万万位に匹敵する。10万枚売れたことに正直驚いた。ちんぬくじゅうしいの詞は地味であるからそんなに売れたとは予想していなかった。


 じゅうしいとは雑炊のことである。雑炊は子供の頃によく食べた。沖縄のコメはアメリカから輸入するカリホルニア米か本土からの古米だった。カリホルニア米は不味かった。古米と混合して売っていた。
 ご飯には塩や醤油をかけたり、おかずを載せてから食べた。姉は最後にお汁をご飯にかけてから食べ終わっていた。沖縄の白米はおいしくなかったのだ。だからじゅうしいにして食べていた。よもぎを入れたじゅーしいをふうちばあじゅうしい、サツマイモの葉を入れたじゅうしいをかんだばあじゅうしいといった。ふたつのじゅうしいはよく食べた。
 ちんぬくじゅうしいは沖縄の農家の生活風景を唄ったものである。


ちんぬくじゅうしい
一、アンマーたむのー煙とんど煙しぬ煙さぬ涙そうそう ヨイシーヨイシー泣くなよ 今日の夕飯何やがて ちんちんちんぬくじゅーしーめー
○お母さん薪が煙たいよ 煙が煙たくて涙ぼろぼろ よしよし泣くなよ 今日の夕飯は何かなと言うと 里芋の雑炊


 私が子供の頃は薪でご飯を炊いていた。煙が台所に充満した時は歌のように煙くて涙を流した。薪を使っていた時は台所の床は土だった。薪は燃えると次第に短くなる。そのまま放っておくと燃えた薪が下に落ちた。板の床であると火事になってしまう。だから台所の床は土であった。薪をくべるのは子供の役目だった。
 薪から木炭になり煙は減った。それから石油コンロになった。石油コンロは台所の革命だった。煙は出ないし燃えた薪や木炭のように床に落ちることがなくなったのだ。それから台所の床は板になった。石油コンロの次に登場したのがガスコンロである。沖縄の台所はどんどん発展していった。ちんぬくじゅうしいが発売されたのはガスコンロが出始めた頃だろうか。薪や木炭の時代は終わっていた。ちんぬくじゅうしいは薪時代の「なつかしい時代」を歌っている。なつかしいといっても10年くらい前のことである。遠い昔のことではない。


二、主が畑から戻みそち シブイにチンクヮーチデークニ 粉ふち芋の煮とんど 豆腐臼の廻とんど クンクンクンスー七まかい
○お父様が畑からお戻りになられ冬瓜 かぼちゃ 島人参 粉ふき芋を煮ているよ 豆腐の臼が回ってるぞ クンスー=にがりを茶碗の七回


 ニガリは豆腐を液体から個体にするものである。海水にはニガリが入っているので沖縄では海水を入れた。本土の豆腐は淡泊であるが沖縄の豆腐には塩味がするのはそのせいである。


三、タンメーバーキや荒バーキ スルガー ニクブク サギゾーキ やふぁら米からうさぎりよ タンメー白髪ぬ美らむぬや トートー米寿 まぎ祝事
○おじいさんのザルは荒い目のザル シュロ皮 ワラ筵 天井に下がる竹籠 やわらかい米(お粥)を差し上げなさいよ おじいさんの白髪は美しいよ 米寿は大きな祝い事


 子供の頃、バーキをつくる大人が居た。竹を切り、竹を割り、内側の柔らかい箇所を削り、強い青い部分を編んでバーキをつくっていた。バーキづくりを見学した。


四、三良マブヤー落とちゃくと前田ぬハーメーがアートートゥ 花米一粒に酒一ちぶ三本ウコーとマース小トートゥ トートゥ アートートゥ
○三良の魂が落ちたので前田のおばあさんがアートートゥ(お祈りの言葉) 清め米一粒に酒一杯三本お線香とお塩トートゥトートゥアートートゥ


 転ぶと魂が地面に落ちると年寄りは信じていた。だから、転んだ地面から子供の胸に「マブヤーマブヤー」と言いながら魂を戻すしぐさを年寄りはやった。私も体験した。


 ちんぬくじゅうしいはなつかしい昔の沖縄の風景を描いていた。昔といっても10年ほど前の昔である。それほどに沖縄の発展は早かったのだ。ちんぬくじゅうしいが大ヒットしたのはなつかしい沖縄の風景を描いていたからだと思う。10万枚も売れたということは買える人が居たということである。それだけ沖縄の生活が豊かになった。


 アメリカ世は沖縄を自由にし、急激に文化、経済を発展させていったのである。
 終戦の頃は60万人以下であった人口は25年後祖国復帰には94万人に増加していた。沖縄の文化、経済が目覚ましく発展したから人口増加したのだ。
 文化、経済の急激な発展は沖縄に生まれ育った私が実感したことである。
 アメリカ世の時代は1ドルが360円であった。ドルを通貨にしている沖縄で力道山のプロレス団体はよく興行をやった。沖縄でドルを稼ぐためであった。大湾には小さな闘牛場があった。闘牛場にジャイアント馬場が見物に来たことがあった。でっかいジャイアント馬場に私たち子供は大騒ぎした。美空ひばりや島倉千代子などの大物歌手の公演もあった。


 戦前の沖縄は非常に貧しく、主食は芋で、靴はなく「芋と裸足」の時代だった。中央集権であり、男は兵士として徴集され戦場に行かなければならなかった。戦後は徴集されないし、主席は沖縄人であり、議員は選挙で選ばれた。戦後の沖縄は民主化も進んだのである。
 文化、経済、民主化の発展に取り残された階層があった。教職員と公務員である。戦前の日本は中央集権国家である。知事は中央政府が派遣する。中央政府の政治を支えているのが教員であり、公務員であった。だから、教員の待遇はよかった。しかし、米国は教員も他の労働者と同じとみなして優遇はしない。琉球政府の財政に合わせて教員の給料は決めていた。だから、戦前に比べて低かった。その当時の本土の教員の半分くらいしかなかった。
 本土復帰運動が教職、公務員を中心に展開された裏には給料の問題があったのだ。米民政府が統治している間は教員の給料が本土並みになる可能性はなかった。祖国復帰なしには本土並みの給料にならない。だから、沖縄の教員、公務員は復帰運動にまい進したのである。学校で沖縄は日本であると生徒に教え、共通語励行、君が斉唱、日の丸掲揚運動を展開したのである。


 私の子供時代は二重の言語世界があった。家庭ではウチナーグチ、学校では共通語である。祖母は共通語を全然話せなかったし、両親は聞くことはできたが話すことはできなかった。子供同士もウチナーグチだった。祖母は日本のことを大和と言い、本土の人は大和人と言っていた。私たちは内地人(ナイチャー)と言っていた。日常のウチナーグチの世界で日本のことを祖国という人は一人も居なかった。
 一日も早い祖国復帰を望んだのが教員と公務員であった。世間が祖国復帰に固執している様子はなかった。実は祖国復帰運動は祖国復帰にほとんど影響していない。ベトナム戦争の莫大な戦費による米国政府の財政危機が大きく影響した。