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社会主義の次に民主主義、共産党の二段階革命論は間違っている

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社会主義の次に民主主義、共産党の二段階革命論は間違っている 


1991年にソ連は崩壊し議会制民主主義国家になった。共産党一党独裁の社会主義国家の次に議会制民主主義国家がやってくることが歴史の必然であることが実証されたのがソ連崩壊である。

共産党一党独裁国家を倒した民主化運動

共産党一党独裁国家を倒したのが民主化運動であった。冷静な目で歴史を見れば、共産党一党独裁国家の次にやって来るのが議会制民主主義国家であることが分かる。これは否定することができない歴史的事実であり、必然である。


共産党一党独裁国家はプロレタリア革命によって樹立され労働者を解放した国家と思われているが、実際は労働者を弾圧する国家であった。そもそもロシア革命は労働者が立ち上がった革命ではなかった。武力で国家打倒を主張する政治家を中心とした農民、労働者、軍隊による武力革命だった。中国は毛沢東などの政治家が農民中心の軍隊をつくって蒋介石軍と戦い、勝利して共産党一党独裁国家をつくった。
労働者が立ち上がり労働者のための国家をつくったのはロシアや中国の革命ではなく、東欧の共産党一党独裁国家を倒した民主化運動であった。これこそがプロレタリア革命であったのだ。民主化運動によってできた国家は議会制民主主義国家であり、三権分立・法治主義が確立している国家である。議会制民主主義国家は実質的にプロレタリア革命を成就している国家である。つまり、米国、日本などの議会制民主主義国家はプロレタリア革命を乗り越えた国家であるのだ。
 
 2015年に出版した「捻じ曲げられた辺野古の真実」に社会主義国家が崩壊して民主主義国家になることを掲載した。一部を紹介する。


東欧革命または東欧民主化革命または共産主義の崩壊は、1989年にソビエト連邦(ソ連)の衛星国であった東ヨーロッパ諸国で共産主義国が連続的に倒された革命である。1989年革命と呼ばれる事もある。

ポーランド民主化運動

ハンガリー人民共和国は1980年代初頭には既に経済の自由化や議会の複数候補制などの改革を進めていたが、1988年5月に社会主義労働者党(共産党)のカーダール・ヤーノシュ書記長が引退すると、社会主義労働者党内ではより急進的な改革を主張する勢力が実権を掌握するようになった。1989年2月に急進改革派は事実上の複数政党制を導入し、5月にはネーメト内閣がハンガリーとオーストリア間の国境を開放し、鉄のカーテンに穴を開けた。
1989年10月には、社会主義労働者党は社会民主主義政党のハンガリー社会党へと改組、さらに10月23日には新憲法「ハンガリー共和国憲法」が施行され、ハンガリー人民共和国は終焉した。

ベルリンの壁崩壊 

クレンツ政権のスポークスマン役を担っていたシャボウスキーは、規制緩和策の内容をよく把握しないまま定例記者会見で「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表し、いつから発効するのかという記者の質問に「私の認識では『ただちに、遅滞なく』です」と答えてしまった。この発表は、東ドイツ政権内部での事務的な手違いによるものだとされる。この記者会見を観た東ベルリン市民がベルリンの壁の検問所に殺到し、殺到した市民への対応に困った国境警備隊の現場指揮官は11月9日の深夜に独断で検問所を開放した。11月10日に日付が変わると、どこからともなく持ち出された重機などでベルリンの壁は破壊され、その影響は世界的に広まった。

ブルガリアの民主化

ジフコフ長期政権が崩壊し、後任となったムラデノフらはあくまでも一党独裁制の枠内での自由化を進めようとしたがこれをきっかけに市民側のデモが活発化し、12月には党の指導性を放棄することや自由選挙の実施などを決定せざるを得なくなった。1990年の自由選挙ではブルガリア社会党(共産党が改名)が過半数を制して政権を維持し、ムラデノフが大統領となった。しかし、 1990年6月になると前年にデモの武力鎮圧を示唆したとされるムラデノフの発言が問題視され、ムラデノフは大統領を辞任し、翌1991年に行われた2回目の自由選挙で社会党は下野した。

ビロード民主化革命

ベルリンの壁崩壊を受けて、東欧の共産党国家の連鎖的な崩壊が始まった。チェコスロバキア社会主義共和国では、ポーランドやハンガリーのような予告された民主化の約束はなかった。しかし、ベルリンの壁崩壊に勇気付けられたチェコスロバキアでは、1989年11月17日に至り、民主化勢力を中心にデモやストライキ・ゼネストを度重なって行った。それらの事態を収拾できなくなった共産党政府はなし崩し的に民主化勢力との話し合いによる解決を模索することとなり、結果、両者は共産党による一党独裁体制の放棄と複数政党制の導入を妥結した。この「革命」では後のルーマニアのような流血の事態には陥らなかった。これを指してビロード革命と言う

ルーマニア民主化革命

ポーランド、ハンガリー、ブルガリア、チェコスロバキアでは国内の政権移譲が穏健に済んだのに対して、当初から国内の改革に全く否定的で共産党が政権の座に固執し続けたルーマニア社会主義共和国では、1989年12月16日に民主化革命が勃発し、治安維持部隊と市民の間で、衝突が起こり多数が犠牲となった上、12月25日にはルーマニア共産党の最高指導者であったニコラエ・チャウシェスクが処刑されて終結した。チャウシェスクの死体はテレビを通じて世界中に晒され、チャウシェスクの死によってルーマニア社会主義共和国は崩壊し、民主政体を敷くルーマニア共和国が成立した。
 
コマネチの亡命

チャウセスク独裁政権下のルーマニアでは個人の自由は認められず、警察も含め、誰もチャウセスク一家に逆らう事は出来なかった。
ナディア・エレーナ・コマネチは1976年に行われたモントリオールオリンピックで3個の金メダルを獲得し、オリンピックの舞台で初めて10点満点を獲得した選手であった。1984年から1989年まで彼女はルーマニア体操協会のコーチとしてジュニア選手の育成にあたったが、ニコラエ・チャウシェスク大統領の次男ニクが毎晩のように夜の街へ付き合うように求められ、愛人関係となることを強いられた。身も心もボロボロになった  
コマネチは、1989年11月28日、命がけでルーマニア脱出を敢行、6時間歩いて地雷が埋められた国境を越えハンガリーに逃れた。しかし、ハンガリー国境警察に逮捕されてしまう。ここでも彼女は決死の脱走を計り、オーストリアに脱出しアメリカ大使館に駆け込む。12月1日彼女はアメリカに渡り、自由を得た。
コマネチの亡命はルーマニア国民を奮い立たせた。12月22日、チャウシェスクの演説中群集はチャウシャスク打倒デモ隊と化した。大統領夫妻はブカレストを脱出したものの近郊のトゥルゴビシュティで逮捕、25日に特別軍事法廷で死刑判決を受け即刻処刑された。


1991年にソ連は崩壊し議会制民主主義国家になる。共産党一党独裁の社会主義国家の次に議会制民主主義国家がやってくることが歴史の必然であることが実証されたのがソ連崩壊である。
 
共産党一党独裁国家を倒した民主化運動

共産党一党独裁国家を倒したのが民主化運動であった。冷静な目で歴史を見れば、共産党一党独裁国家の次にやって来るのが議会制民主主義国家であることが分かる。これは否定することができない歴史的事実であり、必然である。


共産党一党独裁国家はプロレタリア革命によって樹立され労働者を解放した国家と思われているが、実際は労働者を弾圧する国家であった。そもそもロシア革命は労働者が立ち上がった革命ではなかった。武力で国家打倒を主張する政治家を中心とした農民、労働者、軍隊による武力革命だった。中国は毛沢東などの政治家が農民中心の軍隊をつくって蒋介石軍と戦い、勝利して共産党一党独裁国家をつくった。
労働者が立ち上がり労働者のための国家をつくったのはロシアや中国の革命ではなく、東欧の共産党一党独裁国家を倒した民主化運動であった。これこそがプロレタリア革命であったのだ。民主化運動によってできた国家は議会制民主主義国家であり、三権分立・法治主義が確立している国家である。議会制民主主義国家は実質的にプロレタリア革命を成就している国家である。つまり、米国、日本などの議会制民主主義国家はプロレタリア革命を乗り越えた国家であるのだ。
         「捻じ曲げられた辺野古の真実」
 二段階革命論に固執している共産党は民主主義革命の次に社会主義革命があると考えている。しかし、ソ連が崩壊してからソ連に加盟していた社会主義国家が次々と民主主義国家になった。歴史は逆だったのだ。二段階革命論は間違っている。二段階革命論が沖縄の政治をおかしくしている。