hijaiのブログ

沖縄、日本、世界の情勢や芸術について自由に意見するぞー

小学生を犠牲にした反米軍運動 それが普天間第二小学校

小学生を犠牲にした反米軍運動 それが普天間第二小学校


 普天間第二小学校で、市民団体「宜野湾ちゅら水会」が人体に有害とされる有機フッ素化合物(PFAS)の調査を22年8月、独自に行った。第二小のPFOSは1グラム当たり糸満の0.4ナノグラムの16.5倍だった。6か所の調査地で一番高かった。
普天間第二小で高い値が検出されたことについて環境保全課は、過去に普天間飛行場からPFASを含む泡消火剤が流入したことが報道されていることを踏まえ「基地からの影響を受けている可能性を否定することはできない」とした。
 第二小学校のPFASが高いのは普天間飛行場が原因である。第二小学校の運動場にヘリコプターの枠が落下したこともあった。上空はヘリコプターが飛び騒音がひどい。第二小学校の普天間飛行場による被害は甚大である。


 普天間第二小学校の隣に普天間飛行場を建設したのではない。宜野湾市役所は普天間飛行場の敷地だった場所を返還させて第二小学校を設立した。普天間基地の隣に第二小学校を設立したのである。第二小学校は普天間飛行場から遠く離れた場所に設立することもできたが、宜野湾市は普天間故飛行場に隣に設立したのである。子供たちに普天間飛行場の犠牲を強いたのは米軍ではなく宜野湾市である。
このことを11年前に出版した「沖縄に内なる民主主義はあるか」に掲載した。


普天間第二小学校
宜野湾市立普天間第二小学校は、宜野湾市の北、国道58号線と国道330号線を結ぶ県道81号線の中ほどにあり、学校の北側には普天間三叉路があり、その周辺に普天間神宮や商店街などが立ち並んでいる。南側は米軍普天間飛行場とフェンス越しに向かい合っている。そのため、輸送機やヘリコプターの離着陸の騒音にさらされている。宜野湾村が市になった1962(昭和37)年ごろから人口が増え、中心地の普天間小学校の児童数も限界に近づいていたことから普天間第二小学校の建設は計画され、1969(昭和44)年に分離開校した。現在の校舎は1996(平成8)年に普天間飛行場を0.9㏊返還させて拡張した新校舎であり、オープン教室となっている。
普天間飛行場の危険性を問題にするときに必ず取り上げるのが普天間第二小学校である。子供たちが遊んでいる校庭の向こう側から数機の軍用ヘリコプターが一斉に飛び立つ映像はまるでベトナム戦争を見ているようで背筋が凍る。
非常にインパクトがある映像に多くの人は普天間飛行場の危険性を痛切に感じる。普天間飛行場からの騒音は教室内でも100ベシレル以上あり騒音で授業は中断されることも起こっている。普天間第二小学校の騒音被害を報じるたびに一日も早い普天間飛行場の撤去を訴える。
政治家、知識人、学者、教師、市民など多くの人たちが普天間飛行場の危険性を主張し移設を訴える。ただ、彼らのほとんどは日米政府が計画している普天間飛行場の辺野古移設には反対している。普天間飛行場の撤去を訴えている人の多くは「県外移設」を主張している。不思議なことに普天間第二小学校の移転を訴える人はほとんどいない。
普天間第二小学校の騒音問題を取り上げるマスコミも普天間飛行場の「県外移設」を問題にすることはあっても普天間第二小学校の移転を問題にすることはない。政治家、知識人、学者、市民運動家も普天間第二小学校の騒音被害や危険性を問題にしても移転を主張することはない。不思議な現象である。普天間第二小学校が騒音被害を受け、ヘリコプター墜落の危機を抱えているのなら、一日も早く普天間第二小学校を安全な場所に移転するのが最重要な課題であるし、普天間飛行場と違って宜野湾市政がその気になれば移転を実現することができる。ところが誰も移転を提案しない。普天間第二小学校の移転を提案するのはタブーなのだろうか。
普天間第二小学校は1969年に創立している。1969年といえば、ベトナム戦争が激しくなっていた頃である。前年の1968年には嘉手納飛行場からベトナムに向けて飛び立とうとしたB52重爆撃機が墜落炎上し、大爆発を起こして県民を恐怖のどん底に落とした。その年に「命を守る県民共闘会議」が結成され、県民の反基地運動が一番盛り上がった時であった。その時に宜野湾市は普天間第二小学校を普天飛行場の金網沿いにつくったのである。普天飛行場の金網沿いにつくれば騒音被害、飛行機墜落の危険があるのは当然である。それを承知の上で宜野湾市は普天間飛行場の金網沿いに普天間第二小学校を設立したのだ。信じられないことである。
子どもの人権を踏みにじる行為をしたのは宜野湾市政である。非難されるべきは宜野湾市政であり米軍ではない。
米軍の飛行機が墜落炎上する恐れを一番感じている時に宜野湾市は普天間飛行場の金網沿いに普天間第二小学校をつくった。人間の常識としてありえないことである。子どもたちを基地被害の人身御供にして、基地の危険性をアピールするために普天間第二小学校をつくったのではないかと疑ってしまう。


普天間第二小学校の移転問題
1969年当時は普天間第二小学校周囲には空き地が多かった。普天間飛行場から離れた場所でも小学校をつくることは楽にできたはずである。それなのに宜野湾市政はわざわざ金網沿いに小学校をつくった。なぜ、金網沿いにつくったのだろうか。学校は広い敷地が必要であり、土地購入代金の負担が大きい。そのために学校をつくる場所はできるだけ土地代が安い所を選ぶ傾向にある。だから、住宅街からは遠く離れた土地代が安い場所に学校をつくることが多い。人家の少ない場所に学校ができ、その後に人家が増えていくパターンが普通である。沖縄国際大学も那覇市の土地が高いので土地の安い普天間飛行場の近くにつくったという経緯がある。そのように考えると普天間第二小学校を普天間飛行場の金網沿いにつくったのは、その土地が安かったからであろう。普天間飛行場の金網沿いにつくれば子どもたちの騒音被害や飛行機墜落の危険は明らかであった。それなのにつくった。子どもの人権よりお金の節約なのである。
読谷村にも金網に囲まれた小学校がある。字大木の西外れにある古堅小学校である。私が在籍していた頃は古堅小中学校であり、私は9年間在籍した。古堅小学校は西と南が金網でL字状に囲まれていて、ボール遊びをするとボールが金網の中に入ることが度々あった。ボールを取りに金網を飛び越えて基地内に何度も侵入した経験がある。私たちにとって基地侵入は日常茶飯事であった。基地侵入は犯罪であるが、それをやらなければならなかったのが金網に囲まれた学校の生徒の宿命であった。金網に張り付いて移動する競争や誰が金網を早く飛び越えるかの競争もやった。子供は周りのものを全て遊びにする。たとえ、米軍基地でも。


普天間飛行場の金網沿いに小学校をつくるということは騒音が大きいし、ヘリコプターの墜落の可能性があるのははっきりしている。それに金網を目の当たりした学校生活は生徒に閉塞感をもたらす。米軍基地の金網沿いに学校をつくるのは教育上非常に悪いことである。
普天間飛行場の金網沿いに小学校をつくったということは、子どもの人権をないがしろにした宜野湾市の市長、議員、市民であったということである。


1987年(昭和57)に、普天間第二小学校から200メートルしか離れていないところに米軍ヘリが不時着炎上した。当時、宜野湾市長だった安次富(あしとみ)盛信さん(79)によると、これまでも爆音被害に悩まされていたが、炎上事故を受け、小学校に米軍機が墜落しかねないとの不安が広がり、移転を望む声が地域の人たちから沸き上がった。
 安次富さんらは移転先を探したが確保できなかったため米軍と交渉した。約1キロ離れた米軍家族用の軍用地のうち8千坪を校舎用に日本に返還することで合意。防衛施設庁とも協議して移設予算も確保した。
 ところが、市民団体などから「移転は基地の固定化につながる」などと抗議が殺到した。安次富さんは「爆音公害から少しでも遠ざけ危険性も除去したい」と説明したが、市民団体などは「命をはってでも反対する」と抵抗したため、計画は頓挫した。
 その後、昭和63年から平成元年にかけ、校舎の老朽化で天井などのコンクリート片が落下して児童に当たる危険性が出たため、基地から離れた場所に学校を移転させる意見が住民から再び持ち上がった。だが、やはり市民団体などに「移転せずに現在の場所で改築すべきだ」と反対され、移転構想はストップした。それどころか普天間飛行場の0・9ヘクタールを開放させて、学校の敷地を拡大した。普天間飛行場から離れるどころかますます普天間飛行場に食い込んだのである。信じられないことである。


1968年に嘉手納飛行場でB52重爆撃機が墜落炎上爆発した翌年に普天間第二小学校をつくり、小学校から200メートル離れた場所でヘリコプターが不時着炎上したのに移転はしなかった。老朽化した時にも移転の希望が持ち上がったが結局は移転しなかった。普天間飛行場の金網沿いに学校をつくれば騒音被害は当然起こることである。宜野湾市は騒音被害が起こるのを知りながら金網沿いに普天間第二小学校をつくったのだ。1969年から40年以上も移転をしないで普天間第二小学校の子供たちを騒音被害にさらしてきたのは宜野湾市政である。宜野湾市政の責任は大きい。



普天間飛行場移設問題とは関係なく、
一日も早い、
普天間第二小学校の移転を訴える。


           「沖縄に内なる民主主義はあるか」


移転する予定だった軍用地は現在もある。現在でも第二小学校を軍用地に移転することはできると思う。しかし、移転する気は全然ないようである。子供たちの犠牲は普天間飛行場が辺野古に移設するまで続く。


子供たちの犠牲を強いてまでやっているのが反米軍基地運動である。第二小学校の生徒たちの犠牲をなくすためにも辺野古移設を促進させるべきである。しかし、移設工事を邪魔して移設を遅らせている。
子供たちの安全、健康を大事にするなら一日も早い辺野古移設の実現に協力するべきである。