hijaiのブログ

沖縄、日本、世界の情勢や芸術について自由に意見するぞー

宮本亜門の弁舌「戦争を止めるために動いていきたい」に吐き気がする

宮本亜門の弁舌「戦争を止めるために動いていきたい」に吐き気がする 


沖縄県が主催した「平和の尊さについて考える」のシンポジウムが11日、東京都渋谷区で開かれた。シンポジウムで演出家の宮本亜門氏が「戦争の足音が聞こえる今だから知ってほしいこと」と題して講演した。
 かつての琉球王国が外交でアジア諸国と平和的関係を築いた歴史を踏まえたことを根拠に、「礼節を持っていろいろな国をつなげていく。良い意味で自分たちの生き方をしたたかに考えることが必要」と語ったことに吐き気がする。
宮本氏は琉球王国が平和を築いた素晴らしい国であったと賞賛したのである。まるで琉球王国は平和で豊かな国だつたと宮本氏と述べたのである。豊かであったのは琉球王国を支配する王族であった。支配されていた農民はとても貧しかった。
子供の時から聞かされていた沖縄の格言がある。
〇命(ぬち)どぅ宝・・・命が一番宝である。
〇物(むぬ)喰うすどぅ我が主(すう)・・・生活手段をくれるのが私の御主人。
 この二つの格言をほとんどの大人は知っていた。格言は琉球王国時代の農民から生まれた格言である。
命(ぬち)どぅ宝は一番大事なことは生きていくことである。どんなに惨めなことがあっても耐えて生き抜くことが大事だという格言である。8歳で遊郭に売られていく少女が売られることに反対し親に泣きすがった時に、親は少女に、少女が遊郭に行かないと家族が極貧で死んでいかなければならない。家族が生きるためだといい、少女には生きていることが大事だからどんなに辛いことがあっても生き抜いてほしい説得したという。
沖縄の農民はとても貧しく、生きていくだけで精一杯だった。そんな状況から「命どぅ宝」の格言が生まれた。
現在は戦争反対の格言になっているが、それは1968年にB52が嘉手納飛行場で墜落爆発して反基地運動が盛んになった時に瀬長亀次郎が「命どぅ宝」を反戦の格言として利用したのが始まりだった。「命どぅ宝」はせんそうとは全然関係のない格言であったのを瀬永氏が戦争反対の格言にして、いまではそれが定着している。
瀬長氏が最初に命どぅ宝を反戦の格言てあるように演説した大会に私もいた。沖縄の歴史的な格言が政治運動に利用され、嘘の解釈が現在は定着している。


「沖縄に内ある民主主義はあるか」に琉球王国時代の身分構成を記述した。


琉球王国時代は富む士族と貧しき平民に分かれていた琉球処分を否定するかそれとも肯定するか、その判断をするためには琉球王国時代の社会を知る必要がある。


 琉球王国の身分構成


身分        戸数        割合
王子        2戸      0・002%
按司        26戸     0・032%
親方(総地頭)   38戸      0・047%
脇地頭親方・親雲上 296戸     0・367%
一般士族      20、759戸  25・79%
平民        9,326戸   73・71%


琉球王国の中でも財産があり、豊かであったのは、王子2戸(0・002%)、按司26戸(0・032%)、親方38戸(0・047%)、脇地頭親方296戸(0・367%)だけであり、事実上琉球を支配していたのは全戸数のわずか0・448%の戸数の士族であった。
士族の戸数は全戸数の26・29%を占めていたが、士族の98%を占める一般士族は王府勤めを待ち望む無禄士族であり、実際に王府に勤めていたのはごく一部であった。多くの一般士族は貧しい生活を送っていた。


琉球王国はわずか0・448%戸の士族が支配している独裁国家であった。わずかの人間たちだけが贅沢な生活をやり、平民は貧しい生活を強いられていた。琉球王国は一六〇九年に薩摩藩に支配されたので、毎年薩摩藩に多くの産物を献納しなければならなかった。


年貢   9000石
芭蕉布  3000反
琉球上布 6000反
琉球下布 10000反
むしろ  3800枚
牛皮   200枚


沖縄の農民は薩摩藩と琉球王府に二重に搾取されていたことになる。そのために琉球の農民の生活は苦しく、蓄えがほとんどなかったので干ばつに弱く、農民は干ばつになるとソテツを食べて命をしのいだ。それをソテツ地獄という。琉球王国の農民は餓死者が出るソテツ地獄に何度も襲われ、極貧の生活を送った。


これが琉球王国の実態である。首里城の豪華さは農民の貧困の裏返しであった。
        沖縄に内なる民主主義はあるか
 宮本氏は支配者琉球王の側から沖縄を見ている。だから、宮本氏にとっての昔の沖縄は平和で豊かなのである。支配者側に立っている宮本氏の弁舌は胸糞悪い。日本、沖縄には胸糞悪い連中が多い。


 国民が選んだ日米政府が沖縄の平和を守るために尽力してきたから戦後の沖縄が戦争になることは一度もなかった。これからもない。平和守るために日米政府だけでなくオーストラリア、イギリスなど民主主義国家が連帯している。宮本氏は「戦争を止めるために動いていきたい」と宣言したが、彼は何もできない。日本のわずかな人々の集会で弁舌するだけである。「戦争を止めるために動いていきたい」の自惚れ宣言は胸糞が悪い。


沖縄県が主催した「平和の尊さについて考える」のシンポジウムが11日、東京都渋谷区で開かれた。シンポジウムで演出家の宮本亜門氏が「戦争の足音が聞こえる今だから知ってほしいこと」と題して講演した。
 かつての琉球王国が外交でアジア諸国と平和的関係を築いた歴史を踏まえたことを根拠に、「礼節を持っていろいろな国をつなげていく。良い意味で自分たちの生き方をしたたかに考えることが必要」と語ったことに吐き気がする。
宮本氏は琉球王国が平和を築いた素晴らしい国であったと賞賛したのである。まるで琉球王国は平和で豊かな国だつたと宮本氏と述べたのである。豊かであったのは琉球王国を支配する王族であった。支配されていた農民はとても貧しかった。
子供の時から聞かされていた沖縄の格言がある。
〇命(ぬち)どぅ宝・・・命が一番宝である。
〇物(むぬ)喰うすどぅ我が主(すう)・・・生活手段をくれるのが私の御主人。
 この二つの格言をほとんどの大人は知っていた。格言は琉球王国時代の農民から生まれた格言である。
命(ぬち)どぅ宝は一番大事なことは生きていくことである。どんなに惨めなことがあっても耐えて生き抜くことが大事だという格言である。8歳で遊郭に売られていく少女が売られることに反対し親に泣きすがった時に、親は少女に、少女が遊郭に行かないと家族が極貧で死んでいかなければならない。家族が生きるためだといい、少女には生きていることが大事だからどんなに辛いことがあっても生き抜いてほしい説得したという。
沖縄の農民はとても貧しく、生きていくだけで精一杯だった。そんな状況から「命どぅ宝」の格言が生まれた。
現在は戦争反対の格言になっているが、それは1968年にB52が嘉手納飛行場で墜落爆発して反基地運動が盛んになった時に瀬長亀次郎が「命どぅ宝」を反戦の格言として利用したのが始まりだった。「命どぅ宝」はせんそうとは全然関係のない格言であったのを瀬永氏が戦争反対の格言にして、いまではそれが定着している。
瀬長氏が最初に命どぅ宝を反戦の格言てあるように演説した大会に私もいた。沖縄の歴史的な格言が政治運動に利用され、嘘の解釈が現在は定着している。


「沖縄に内ある民主主義はあるか」に琉球王国時代の身分構成を記述した。


琉球王国時代は富む士族と貧しき平民に分かれていた琉球処分を否定するかそれとも肯定するか、その判断をするためには琉球王国時代の社会を知る必要がある。


 琉球王国の身分構成


身分        戸数        割合
王子        2戸      0・002%
按司        26戸     0・032%
親方(総地頭)   38戸      0・047%
脇地頭親方・親雲上 296戸     0・367%
一般士族      20、759戸  25・79%
平民        9,326戸   73・71%


琉球王国の中でも財産があり、豊かであったのは、王子2戸(0・002%)、按司26戸(0・032%)、親方38戸(0・047%)、脇地頭親方296戸(0・367%)だけであり、事実上琉球を支配していたのは全戸数のわずか0・448%の戸数の士族であった。
士族の戸数は全戸数の26・29%を占めていたが、士族の98%を占める一般士族は王府勤めを待ち望む無禄士族であり、実際に王府に勤めていたのはごく一部であった。多くの一般士族は貧しい生活を送っていた。


琉球王国はわずか0・448%戸の士族が支配している独裁国家であった。わずかの人間たちだけが贅沢な生活をやり、平民は貧しい生活を強いられていた。琉球王国は一六〇九年に薩摩藩に支配されたので、毎年薩摩藩に多くの産物を献納しなければならなかった。


年貢   9000石
芭蕉布  3000反
琉球上布 6000反
琉球下布 10000反
むしろ  3800枚
牛皮   200枚


沖縄の農民は薩摩藩と琉球王府に二重に搾取されていたことになる。そのために琉球の農民の生活は苦しく、蓄えがほとんどなかったので干ばつに弱く、農民は干ばつになるとソテツを食べて命をしのいだ。それをソテツ地獄という。琉球王国の農民は餓死者が出るソテツ地獄に何度も襲われ、極貧の生活を送った。


これが琉球王国の実態である。首里城の豪華さは農民の貧困の裏返しであった。
        沖縄に内なる民主主義はあるか
 宮本氏は支配者琉球王の側から沖縄を見ている。だから、宮本氏にとっての昔の沖縄は平和で豊かなのである。支配者側に立っている宮本氏の弁舌は胸糞悪い。日本、沖縄には胸糞悪い連中が多い。


 国民が選んだ日米政府が沖縄の平和を守るために尽力してきたから戦後の沖縄が戦争になることは一度もなかった。これからもない。平和守るために日米政府だけでなくオーストラリア、イギリスなど民主主義国家が連帯している。宮本氏は「戦争を止めるために動いていきたい」と宣言したが、彼は何もできない。日本のわずかな人々の集会で弁舌するだけである。「戦争を止めるために動いていきたい」の自惚れ宣言は胸糞が悪い。