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沖縄戦になったのは日本が軍国主義だったから2

沖縄戦になったのは日本が軍国主義だったから2


 日本は軍国主義国家であったのかなかったのか
5・15事件をきっかけに日本は軍国主義へまい進していった。日本が軍国主義だったために沖縄戦があり10万人の住民が死んだことを説明していこうと思っていたが、戦前は軍国主義国家ではなかったという意見があり、明治からずっと軍国主義だったという意見もあることを知った。戦前は軍国主義国家であったのかそれとも軍国主義国家ではなかったのか。沖縄戦について説明する前に両方の意見を検討してみることにした。


日本は明治から軍国主義であったと言う説
 明治から軍国主義であったとする説の根拠は、
日本は帝国主義・富国強兵を宣言した国家であり、明治維新後、日清戦争、北清事変、日露戦争、第一次世界大戦、シベリヤ出兵、山東出兵、満州侵略、盧溝橋事件とそれに続く中国大陸侵略拡大、張鼓峰事件、ノモンハン事件、海南島侵略、仏印侵略、そして米英に対する開戦と日本は戦争ばかりやっていたし、戦争に反対する者は徹底して弾圧した。戦争、弾圧すべてが軍(主に陸軍)主導でやっていたから日本は軍国主義であったという説である。


 確かに戦前の憲法は大日本帝国憲法であり、日本が帝国主義国家であることを宣言したことは確かである。日本が帝国主義国家であったことは否めない。
富国強兵を掲げていた明治政府は明治6(1873)年に徴兵令を布告した。対象年齢となった男子はすべて徴兵検査を受けなければならなかったし、徴兵検査に合格した男子は日本軍に入隊して軍事訓練を受けなければならなかった。そして、国が赤札で徴兵すると軍隊に入り、戦地に行かなければならなかった。国民は皆兵であった。
明治政府が徴兵令を布告し国民皆兵にしたのは軍隊を強化するのが目的であった。軍隊を強くした理由は軍事力で大陸に進出して植民地を獲得するためであった。植民地を獲得するために軍隊を強くしていったのが憲法を「大日本帝国」と帝国を掲げたことで分かる。しかし、帝国主義、富国強兵だから軍国主義というのは間違いである。
イギリスやオランダなど戦前のヨーロッパの国々はアフリカやアジアに植民地を持っていた。植民地にするために強い軍隊をつくり、アフリカやアジアの国々に武力で侵略したのである。しかし、イギリスは軍国主義国家ではなかった。議会政治国家だった。日本が帝国主義・富国強兵を目指していたから軍国主義国家であると決めつけるのは間違っている。
 軍国主義国家とは軍部が政権を握ることである。帝国主義、富国強兵の国家であっても国家の政権を政治家が握っていたら軍国主義国家ではない。


 明治維新の後、立憲政治・議会制度の創設が論議されるなかで、1870年代には福澤諭吉をはじめとする三田派の言論人たちを中心に政党内閣制を採用するように主張され始めた。
明治初期時代は藩閥政治であったが政府内部でも政党政治への動きがあり明治14年(1881年)3月に参議大隈重信がイギリスをモデルとする議会政治の早期実現を主張し、政党内閣による政権運営を求めて意見書を提出した。しかし、右大臣岩倉具視の提出したプロイセンをモデルとする立憲君主制の提案が採用された。
明治政府は軍人が首相になることもあったが、政治家中心の政治であり軍人中心政治にはならなかった。
明治時代には議院内閣制は採用されなかったが、大正時代に入ると、大正デモクラシーを背景に政党の勢力を伸張していき、1912年の第1次護憲運動の後、大正7年(1918年)9月に立憲政友会の原敬が内閣を組閣した。この内閣は閣僚の大半が政党所属であった。原は藩閥ではなく現役衆議院議員であったから現役衆議院議員の初の首相であった。
原敬は右翼少年に暗殺されるが、原内閣以後も政党が政権を握る政党内閣が続いた。
陸軍・海軍や枢密院、官僚などの勢力は強く、政党内閣の政権下でも依然として大きな政治的発言力があり、政党内閣の政権運営に介入していたことは事実であるが、明治から大正、昭和初期まで政治家が政権を握っていたのは確かである。軍部の勢力は強かったが軍国主義国家ではなかった。しかし、1932年5・15事件以後から軍国主義が始まったと私は考えている。


戦前は軍国主義国家ではなかったという説
軍国主義ではなかったという説では、満洲事変前後から軍部が台頭し、政治への強い干与がはじまったことは事実であると認めている。そして、五・一五事件、二・二六事件後、軍中央部が政治への強い発言権を持つようになったことも事実であると認めている。加えて、国家総動員法の成立、大政翼賛会の結成に軍部の強い支持があったことも事実であると認めている。それらを認めた上で日本は軍国主義ではなかったというのである。


軍国主義ではなかった根拠に上げたのが「革新」派の存在である。「革新」派とは満洲事変以後にナショナリズムの昂揚とともに現状打破を主張して台頭してきた勢力である。
「革新」派は軍部だけでなく、政党各派、官僚に加え民間の中にも多数存在した。「革新」派はナチス傾倒者、左翼からの転向者、右翼、民族派など幅広く存在した。
こうした大きな政治潮流の背景をぬきにして軍部の台頭のみを抽出して論じるのは、歴史に対する公正な態度とはいえないというのが戦前は軍国主義国家ではなかったと主張する側の主張である。軍国主義国家ではなかった派は、軍部も含めそれらの勢力を生んだ政治的思想的潮流こそ問題にすべきであるというのである。


軍国主義国家ではなかった派は「軍国主義」とか「ファシズム」の指標とされる大政翼賛会についても取り上げている。大政翼賛会へ向う新体制運動につながる中核グループには「東亜建設国民聯盟」の結成があり、「東亜建設国民聯盟」は軍部ではなく民間「革新」派の結集であったことを強調している。そして、大政翼賛会の結成時には、当初軍がもくろんでいた一国一党の前衛党の形式は民族派や現状維持派から「幕府論」だとの強い非難をうけ、「公事結社」として政府の方針を国民に伝達する機関となった。これは軍の「革新」派のもくろみの失敗であり、その意味でも「軍部支配」とはいいがたいと主張している。
でも、大政翼賛会に結集した民間人は思想的には軍部による政治支配に賛同した連中であり、民間の「革新」派が居たとしても、軍部が政権を握ったのは事実し、軍部が主流となって政治を行ったことを否定できるものではない。だから民間の「革新」派が居たから軍国主義国家ではなかったというのは間違っている。
5・15事件そして、2・26事件によって軍部と対立する政治家は軍部によって排除されるたのは事実である。そのために軍部に対抗する政治家がいなくなったのも事実である。政党政治家のいない軍部による政権は軍事政権であり、軍部の思想が直接政策となる国家は軍国主義国家である。


 犬養首相が暗殺されたのは軍部との対立していたからである。犬養首相を暗殺することによって満州における軍部の政策が実現していった。


 犬養首相は中華民国の要人と深い親交があり、とりわけ孫文とは親友だった。だから犬養首相は満州地方への進軍に反対で、「日本は中国から手を引くべきだ」との持論をかねてよりもっていた。しかし、大陸進出を急ぐ帝国陸軍の一派と、それにつらなる大陸利権を狙う新興財閥は日本が侵略し直接支配するために満州国独立の承認を政府に迫ったのである。犬養首相は軍部の要求を拒否した。
犬養首相としては、満州国の形式的領有権は中国にあることを認めつつ、実質的には満州国を日本の経済的支配下に置くという考えだった。犬養首相は中国国民党との間の独自のパイプを使って外交交渉で解決しようとした。交渉は行き詰まり、結局、犬養首相の満州構想は頓挫したが、政治家は政治交渉を優先させてできるだけ穏便に解決しようとする。しかし、軍部は武力で制圧占領することによって解決しようとする。それが政治家と軍人の違いである。
犬養首相は護憲派の重鎮で軍縮を支持しており、これも海軍の青年将校の気に入らない点だったといわれる。軍部の野望を拒否したから犬養首相は軍人に殺害されたのである。


二つの説は間違っている
明治時代から軍国主義国家だったという説も、戦前の日本は軍国主義ではなかったという説も間違っている。明治時代は政治家が政治をしていたし、政治の近代化は進み、政党政治になつたが、5・15事件で犬養首相が暗殺されてから、軍部が政権を握り軍人が政治をやるようになった。だから日本は軍国主義国家になったのである。
軍国主義国家になると大正デモクラシーと呼ばれるような民主主義の運動も弾圧されていった。


5・15事件以後に軍国主義に向かった
1932年(昭和7年)5月15日に内閣総理大臣 犬養毅を武装した海軍の青年将校たちが殺害した。


昭和天皇は鈴木貫太郎侍従長を通じて、犬養首相の後継の首相は人格の立派な者を選び、内閣は協力内閣か単独内閣かは問わない、しかしファッショに近いものは絶対に不可といった内閣をつくるように指示した。
昭和天皇が希望した内閣はファッショに近い軍部の内閣ではなく、民主主義に近い政党内閣であった。しかし、昭和天皇が指示した政党内閣はつくられないで元海軍大将であった斎藤実が次期首相になり軍部中心の内閣がつくられた。
犬養首相暗殺後の内閣は、昭和天皇が指示した内閣は実現しないで昭和天皇が望まなかった内閣がつくられたのである。戦前の国家は天皇主権と言われているが犬養首相暗殺後の日本はそうではなくなっったのである。天皇よりも軍部が望む政権がつくられたのである。


軍部の勢力が強かったのは、大日本帝国憲法第11条に 「天皇は陸海軍を統帥す」とあり、天皇主権の戦前では法的には軍部は内閣によるシビリアンコントロール下にはなく内閣とは五分五分の立場であった。しかし、明治以降ずっと政治家が軍を主導していて、天皇による統帥権が憲法には銘記されているにも関わらず政治主導されていることが問題にされることはなかった。しかし、昭和に入り、統帥権干犯問題が起こる。


統帥権干犯問題
昭和5(1930)年、ロンドン海軍軍縮条約に調印した浜口雄幸内閣に対して、軍部と野党政治家が政府を激しく攻撃した。


※ワシントン海軍軍縮条約
1921年(大正10年)11月11日から1922年(大正11年)2月6日までアメリカ合衆国のワシントンD.C.で開催されたワシントン会議のうち、海軍の軍縮問題についての討議の上で採択された条約。アメリカ(米)、イギリス(英)、日本(日)、フランス(仏)、イタリア(伊)の戦艦・航空母艦(空母)等の保有の制限が取り決められた。



軍部と野党政治家は、
「明治憲法(大日本帝国憲法)の第11条には「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」、第12条には「天皇ハ陸海軍ノ編成オヨビ常備兵額ヲ定ム」、とある。これは天皇の統帥権、編成大権であり、陸海軍の兵力を決めるのは天皇と書かれている。天皇をさしおいて、政府が兵力数を決めてきたのは憲法違反である。天皇の統帥権を犯すものだ」
と主張したのである。
これを政争の具にして議会で「統帥権干犯!」と騒ぎ出したのが野党であった政友会の犬養毅や鳩山一郎(鳩山由紀夫・邦夫兄弟の祖父)であった。


犬養毅や鳩山一郎の野党の主張に対して、浜口雄幸首相は、
「一応天皇が最終的な権限を持っているけど、実際上は責任内閣制度なのだから内閣が軍縮条約を結んでもかまわない。これが統帥権干犯ならば、外交を外務大臣がやるのは外交権干犯なのか?」
と答弁をした。鳩山一郎や政友会は浜口首相に言い負かされてしまう。
しかし、これで浜口首相は右翼や海軍から恨みを買うことになり、後日、右翼に狙撃されて重傷を負い、退陣に追い込まれた(浜口は約10ヵ月後に死亡)。


もともとは明治憲法の欠陥なのだが、それまでは元老制度によってこれが問題となることはなかった。しかし、昭和に入ると元老のほとんどは死に絶え、必然的に内閣の権威も衰えてしまった。ここに統帥権干犯問題という軍部の横暴がまかり通ってしまった原因がある。
結局、この問題により内閣は軍に干渉できないことになってしまった。
統帥権にこだわり、勢力拡大の野望に固執した軍部や右翼によって統帥権干犯論を撥ね付けた浜口首相は殺害され、満州問題で軍部と対立した犬養毅も五・一五事件で射殺された。この流れはより強固になっていき二・二六事件へと連なるのである。
統帥権干犯問題あたりを機に、日本の議会政治は徐々に死んでいき軍国主義への道に進んでいくのである。


統帥権干犯問題は、伊藤博文に始まった日本の政党政治の息の根を止めることになった。
五・一五事件で8年間続いた政党内閣は崩壊し、軍部が政権を握る軍国主義へ歩みだしたのである。


軍部の野望
政権を握った軍部の野望は日本国家を掌中に治め、日本を軍部の思い通りの国にしてから、満州の植民地支配を初めとした大陸進出であった。
軍部の野望の最終目的は日本が指導者として欧米勢力をアジアから排斥し、日本・中華民国・満州を中軸とし、フランス領インドシナ(仏印)、タイ王国、イギリス領マラヤ、英領北ボルネオ、オランダ領東インド(蘭印)、イギリス統治下のビルマ、オーストラリア、ニュージーランド、イギリス領インド帝国を含む広域の政治的・経済的な共存共栄を図る大東亜共栄圏構想であった。
軍部は大東亜共栄圏野望を実現するためにアジアに戦場をどんどん広げた。軍政府は日本経済を支える労働者である国民の多くを戦場に送った。そのために日本の生産は落ち、経済は下がり、国民は貧困にあえいだ。それでも軍政府は、
「贅沢しません勝つまでは」
と国民に言わせて、戦場を拡大していった。


帝国主義を宣言したのは明治政府を設立した政治家である。政治家が軍部と同じように大東亜共栄圏の野望を持つ可能性もある。しかし、政治家が軍部と同じ政策で大東亜共栄圏を目指すかというと、満州の植民地化政策で犬養首相と軍部が違ったように政策は違っていたはずである。
 政党政治の政権が、果たして、
「贅沢しません勝つまでは」
と国民に言わせてまで戦場を拡大していったかどうかを検討することは必要だと思う。


軍国主義とは軍部が政権を握り軍人が国の政治を動かすということである。政治家の政治と軍人の政治が同じであれば問題はない。しかし、軍人の政治と政治家の政治は違う。それが問題である。
沖縄戦になったのは日本が軍国主義だったからであり、太平洋戦争の時でも政治家による政治が続いていたら神風特攻隊はなかったし、沖縄戦にもならなかったはずである。