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民主主義に徹しきれず社会主義にも徹しきれない共産党

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民主主義に徹しきれず社会主義にも徹しきれない共産党


日本共産党の田村智子委員長は党員による直接投票(党首公選制)ではなく、党大会で選出された中央委員による互選(中央委員会総会)で選ばれている。


日本共産党の委員長選出プロセス

党の最高決定機関である「党大会」で中央委員を選出する。選出された中央委員が、大会後の「中央委員会総会」で委員長をはじめとする幹部会役員を選出する。共産党は他の政党とは違い党員が直接選出しない仕組みをとっている。


日本共産党が全党員による直接投票での党首選出を行わないことを問題にした共産党員が出た。松竹伸幸氏である。

松竹伸幸氏は

「他の政党を見ていると、複雑な問題が起きた際、賛否が分かれて議論され、やがて対応がまとまっていく過程が可視化されるが、共産党の場合、賛否が分かれているだろうに、どういう根拠で結論が導かれるのかが外からは見えない」と共産党の秘密主義を批判した。「偉い人の考え方次第で態度が決まるのではないのか」「民主的な議論が尽くされていないのでは」と松竹氏は批判した。松竹氏は「日本共産党が党首公選を実施すれば日本の政治がマシになる」と主張して、党員投票による党首選挙の実施を主張した。そうすれば共産党には自由も個性もあることが国民に知られ、共産党への国民の抵抗感が和らぐと言い、党首公選を通じて安保・防衛政策で他の野党と「共通の土俵」が生まれ野党の間で安保・防衛政策はもちろん経済政策も含めて自民党との対抗軸となるような議論が開始され、野党の政権共闘が確立し自民党政権を脅かすような存在として国政選挙に臨むことができる。そして、政権交代の可能性が現実のものとなり、自民党政権が存続する場合も野党の存在と主張を無視できない政治状況が誕生すると主張した。松竹氏は本を出版している。



日本共産党の田村智子委員長の前の委員長は志位和夫氏である。志位氏はなんと約23年間も委員長であった。23年間も委員長であり続けたのだ。こんなに長期間委員長であり続けるのは他の政党で考えられないことである。長期間委員長であったのは志位氏だけではない。志位氏の前の委員長は不破哲三氏である。不破委員長は1989年5月から2000年11月までの11年間委員長であった。次の志位和夫委員長は2000年11月から2024年1月18までの24年間も委員長であった。自民党、立憲民主、維新の会などの他の政党ではありえないことである。委員長が長期間同じある原因は共産党の委員長を選ぶ制度にあると批判したのが「シン・日本共産党」を出版した松竹氏である。<center>

<img src="https://img03.ti-da.net/usr/h/i/j/hijai/シン日本共産党_qz1.jpg" width=200></center>

 田村委員長は松竹氏を除名した。松竹氏が主張する委員長の共産党全員による公選制を拒否したのである。共産党は他の政党とは性質が違う。他の政党は戦後日本が民主主義国家になって、憲法が制定され、選挙制度が敷かれた後に生まれた政党である。共産党は違う。共産党だけは戦前に設立した政党である。


日本共産党は、1922年(大正11年)7月15日に創立した。共産党を創立したのはロシアで社会主義革命が起こったからである。革命によって社会主義国家が誕生したことに影響を受けて東京の渋谷で非合法の政党として設立したのが共産党である。日本で社会主義革命を 目指して結成した非合法の政党が共産党なのだ。


革命を目指した共産党への弾圧は厳しかった。共産党員であるというだけで、逮捕された。留置場で拷問し共産党を辞めることを強制した。拷問で殺された共産党員もいた。


学生の時私が好きな詩人が中野重治だった。

中野重治は1930年に『春さきの風』などを発表し作家としての地位を確立する中、翌1931年に日本共産党に入党した。その後、地下活動に関与し、1932年に治安維持法違反で検挙され、投獄された。そして、転向するように弾圧された。権力の弾圧に屈した中野は共産主義思想を放棄し、「転向」することを誓い1934年5月に出獄した。戦後、転向したことに対する自己の苦悩や、周囲の人間模様を対象化して描いた一群の作品を発表した。当時の文学界において「転向文学」の代表格と評価されている中野重治である。


弾圧に屈しないで共産主義を貫いた人たちが戦後に合法の共産党を設立した。

戦前は非合法だった共産党は1945年10月に連合国軍総司令部(GHQ)の政治犯釈放令によって合法化された。これにより、治安維持法などの弾圧法が廃止され、政治犯が釈放された。


1945年10月10日に府中刑務所などから徳田球一、志賀義雄、袴田里見らの共産党幹部が出獄した。

1945年12月に 共産党は合法の政党として再建・活動再開をした。翌1946年2月の第5回党大会で本格的な政治活動をスタートさせた。


共産党は社会主義革命を目指して結成した政党である。戦後日本の選挙制度のために設立した政党ではない。ロシア革命を起こしたレーニンは選挙制度を否定している。選挙をすれば社会主義が否定している資本主義の人間か当選してしまう。資本主義の人間を国会に入れないために、共産党員だけの一党独裁国家を主張したのがレーニンであり、ソ連は共産党一党独裁国家だった。選挙制度は共産党が否定する制度である。だからソ連は選挙をしなかった。しかし、戦後の日本は選挙制度の国家である。選挙、国会、内閣、裁判の三権分立が戦後の日本である。日本の政治体制に共産党の社会主義が中途半端なものになっていった。


徳田球一は沖縄名護市出身である。日本共産党の創立メンバーである。1922年の日本共産党結成に参画し、1928年に治安維持法違反で逮捕されてから終戦まで約18年間を獄中で過ごした。18年間獄中にいたがこの間、一切の「転向」を拒み続けた徳田久一である。戦後1945年に釈放えされた徳田久一は共産党を再建し、12月には書記長に選出された。衆議院議員にも当選し、「徳球(トッキュウ)」の愛称で親しまれた。しかし、1950年に連合国軍総司令部(GHQ)により公職追放された。共産党は公認になったが、徳田久一は公職追放された。武装革命を目指しす徳田久一の活動は認められなかったのだ。徳田久一は非合法の地下潜行を余儀なくされた。その後中国へ渡り、日本国内の党組織(北京機関)を指導していたが、1953年に北京で病死した。 共産党は徳田球一のように革命を目指す党員が主流であったのだ。しかし、徳田久一は公職追放された。

徳田のように公職追放はされない方向で共産党の幹部は方向転換していった。代表は書記長ではなく委員長にした。共産党の新しい体制ができあがったのは1970年であった。1970年に初めて設置された中央委員会委員長になったのが宮本顕治氏である。1970年(昭和45年)に日本共産党で初めて設置したた中央委員会委員長になったのが宮本顕治氏である。


戦後の民主化に伴い、暴力革命路線やソ連・中国からの指令を拒否して日本共産党を離脱した人々が増えた。武装闘争の誤りを認めない宮本顕治らの指導部と対立し、議会を通じた民主主義的な平和革命(構造改革)を主張した春日や内藤らは離党した。

共産党から民主派が離党していったのだ。他方、中核派、革マル派のような武装闘争派も共産党を離れた。共産党は民主派でもなければ武装派でもない中間派の政党になったのである。