国民は社会主義を嫌っている 1960年も、今も
国民は社会主義を嫌っている 1960年も、今も
日米安保闘争の写真を何度も見るうちに気になっていったことがある。反安保闘争の参加者がとても多いことだ。政府を転覆させることができるほどである。こんなに多いとは予想していなかった。
日米安保は日本と米国の安全を守るための条約である。日米安保を締結しても日本の政治には大きな変化はない。それなのに反対運動に集まった人が多いのだ。日米安保が日本の政治を大きく変化させ、国民に大きな影響を与えるのなら多くの国民が参加するのは理解できる。しかし、大きな影響はない。こんなに集まって日米安保運動をするのはおかしいと考えるようになった。過去によく見たのが1の写真である。まあ、このくらいは集まるかもしれないと思った。しかし、2、3の写真を見て、あまりにも多いことに首を傾げるようになった。これだけ集まるのなら国会に突入して自民党政府を倒すのも可能である。しかし、自民党政府を倒すことはやらなかった。
日米安保闘争に参加したのは日教組。自治労、国鉄労組、学生である。
2015年に短編小説「1971Mの死」を出版した。学生運動をやっていた1971年に友人のMが内ゲバで殺されたことを題材にした小説である。学生運動に参加していたから県民大会に何回も参加した。一般の人が県民大会に参加しているのは非常に少なかった。参加しているのは教職員と市町村の役所の職員がほとんどだった。そのことを参考にすれば、
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写真の人物たちは教員、役所の職員、国鉄労組がほとんどであっただろうと予想できる。
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<img src="https://img03.ti-da.net/usr/h/i/j/hijai/国会3、_R5K.png" width=350>
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こんなに反対運動が盛り上がったのに日米安保は成立した。
衆議院通過までの過程
1951年(昭和26年)に締結された安保条約は、1958年(昭和33年)ごろから自由民主党の岸信介内閣によって改定の交渉が行われ、1960年(昭和35年)1月に岸首相以下全権団が訪米して、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領と会談し、新安保条約の調印をした。そして、同大統領が訪日することで合意とした。新条約1月19日に米国で調印されたのである。
新安保条約に反対する日本社会党や日本共産党は組織・支持団体を挙げて全力動員することで運動の高揚を図った。総評は国鉄労働者を中心に「安保反対」を掲げて時限ストを数波にわたり行い、日教組も反対運動を展開した。自治労も安保反対運動を展開した。
日米安保は日本国内だけの問題ではなかった。朝鮮、ソ連、中国とも深く関係していた。
1950年に朝鮮戦争があった。
1950年6月25日にソ連のヨシフ・スターリンと中国の毛沢東の同意と支援を取り付けた金日成率いる北朝鮮が、事実上の国境線と化していた38度線を越えて韓国に侵略戦争を仕掛け、勃発したのが朝鮮戦争である。西側諸国を中心とした国連軍と東側諸国の支援を受ける中国人民軍が交戦勢力として朝鮮戦争に参戦した。3年間に及ぶ戦争は朝鮮半島全土を戦場と化して荒廃させた。
1953年7月27日に国連軍と中朝連合軍は朝鮮戦争休戦協定に署名し休戦に至ったが、北緯38度線付近の休戦時の前線が軍事境界線として認識され、南北二国の分断状態が続くこととなった。朝鮮戦争は終戦ではなく休戦状態である。
ソ連共産党中央委員会国際部副部長として、日本をアメリカの影響下から引き離すための工作に従事していたイワン・コワレンコは、ソ連共産党中央委員会国際部が社会党や共産党、総評などの「日本の民主勢力」に、「かなり大きな援助を与えて」いた。
安保闘争においてもソ連共産党中央委員会国際部とその傘下組織と密接に連絡を取りあっていたと述べている。
日米安保反対運動は日米安保に反対しているのではなく日米の資本主義に反対していた。日本、米国への反日、反米運動は反安保運動を装った反資本主義運動であったのだ。そのことを感じていたから岸首相はなんんとしても反安保闘争を力づくで止めようとした。
岸首相は博徒、暴力団、恐喝屋、テキヤ、暗黒街のリーダー達を説得し、アイゼンハワーの安全を守るため「効果的な反対勢力」を組織した。最終計画によると1万8000人の博徒、1万人のテキヤ、1万人の旧軍人と右翼宗教団体会員の動員が必要であったという。
岸首相は赤城宗徳防衛庁長官に対して陸上自衛隊の治安出動を要請した。創価学会の池田大作会長には大阪事件の無罪判決確約を条件に創価学会の学会員を動員させようとしたが池田会長に断られた。池田大作に要請を断割れた岸首相は、右翼の児玉誉士夫などを使い暴力団を動員した。
日教組、自治労は日米安保運動に参加して、反政府運動を展開することができる。自民党を支持している国民は民間企業の労働者であり、日教組や自治労のように運動することはない。だから、岸首相が集めることができたのは博徒、暴力団、恐喝屋、テキヤ達だったのだ。
日米安保は反対運動が展開されている中で6月23日に発効された。
同年11月20日には衆議院選挙選挙が行われた。日米安保闘争で国会を取り巻き、自民党政府をひっくり返すほどに多くの社会党、共産党系の人たちが集まったので選挙では自民党と共産党、社会党が接戦すると予想すると思うが現実は違った。自民党が圧勝した。
第29回衆議院議員総選挙(定数467)の結果。
自由民主党 296議席
日本社会党 145議席
民主社会党 17議席
日本共産党 3議席
自民党は過半数の234議席を62議席も上回る議席を確保したのである。多くの国民は日米安保を受け入れていたのである。
国会を取り巻いているデモ隊を見ると、衆議院選挙では安保反対の社会党、共産党の議席が増えて、過半数になって与党になると予想されるが、現実は自民党が圧勝したのである。
国民は社会党、共産党ではなく自民党を支持したのである。国民は社会主義を嫌っているのだ。1960年も、今も。</span>
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